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天国に手が届く

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天国はまだ遠く ――『天国に手が届く』SS

2018-02-06
耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣で横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない。はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を呑むんだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来たのだ。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めた。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

  *

小田切叶のものと見られる遺品が見つかった。
その知らせは、ある秋の日、突然にやってきた。
アラスカ、デナリの南東約二十キロの位置に、「ブロークントゥース」と呼ばれる山塊がある。ムース・トゥースを中心に、六つの山頂をつなぐ、全長八キロにも及ぶ岩の壁だ。その北壁を冬季単独登攀中、小田切叶は消息を絶った。もう十三年前のことだ。以来、彼自身も、彼の遺品も、吹雪の向こうから帰ってきたものは何一つない。
その叶のものと見られるザックが、オーストリアの登山隊によって偶然発見された。遭難当時、滑落地点とされた場所から、数百メートルもずれた岩場だ。周囲に遺体らしきものはなく、半ば氷漬けになっていたザックの一部しか回収できなかったそうだが、現地にはまだ他にも遺留品があるらしい。
小田切は、その電話を戸隠の山から帰る車内で受けた。ハンズフリー通話のため、車内に響く相手の声を、佐和もまた聞いていた。
小田切は動じなかった。終始落ち着いて冷静に受け答えする横顔に、佐和は彼の覚悟を見た気がした。おそらく彼は、叶がいなくなったときからずっと、こんな電話が来るときのことを繰り返し考えては、覚悟を塗り重ね、応答をシミュレートしてきたに違いなかった。厚く塗り固められた覚悟のおかげで事故を起こすこともなかったが、大切な人の死に関わることを、一ミリの動揺もなく聞く彼の姿には、佐和のほうが泣きたくなった。
そうやって、ガチガチに覚悟を固めておかなければ耐えられないほど、小田切にとって叶は大切な人だった。幼い彼に家族のぬくもりを与えてくれた叔父で、心を預けた山の師匠で、初めてザイルといのちを預けたパートナー。佐和を小田切のところまで導いてくれたのも、他ならぬ叶だ。最期まで一人で山に挑み続けた人だったが、小田切のことを気にかけ、大切にしていたのも本当だった。
今まで、叶はもう帰ってこないのだとわかっていながらも、どこかで、彼が世界の山を歩き続けているような気がしていた。だが、遺留品が見つかったことで――もしかしたら、遺体も見つかるかもしれない可能性が出てきたことで、彼の死はよりはっきりとした輪郭をもち、現実として小田切の目の前に突きつけられようとしている。
動揺を必死に押さえ込み、佐和はハンドルを握る彼の横顔をひたと見つめた。脳裡に、あの夏の槍のうつくしく清澄な夜明けがよみがえった。
――なぁ、佐和。いつか、一緒にアラスカに行ってくれないか。
小田切の言葉に、天に手をかざしながら、佐和は笑って答えたのだった。
――アラスカでも、ヒマラヤでも。いつか天国にだって一緒に行くよ。
あの約束を、果たすときが今、やってきたのだ。
「小田切、行こう」
そう佐和が言ったとき、小田切は小さく目を瞠った。視線は前方から離さなかったが、見えない手で佐和の存在を探るような、抱き締めたいような気配があった。
泣きそうにも見える顔で小さくほほ笑み、小田切は頷いた。
「ああ、行こう」
あの遠い夏の穂高のようだった。


それから一年近くの時間をかけて、二人は少しずつ準備を進めた。
ブロークントゥースは、山岳登攀をする人間には知られた山でも、デナリほど知名度が高い山でもなければ、ルートもそれほど整っていない。アンカレッジ経由でデナリの玄関口、タルキートナへ。そこからさらにセスナ機に乗り、カヒルトナ氷河へ。広大な氷河から見て、デナリと真反対にそびえるのがブロークントゥースだ。全行程三週間の旅を計画するのは、社会人二人にとって容易ではなかった。それが、彼と約束を交わして今まで七年、その約束が果たされなかった最大の理由でもある。
アウトドアメーカー勤務の佐和は、自社製品の耐久実験を兼ねることを条件に、長期休暇と金銭的補助をもぎ取った。小田切は、勤続十年のリフレッシュ休暇をほとんどすべて注ぎ込む。もう三十代半ば。体力と経験、技術を総合的に考えて、今が一番充実している。なんとしても、この夏、叶に会いにいくのだ。二人とも多少の無理は押し通した。
だが、そうやって、社会の枠の中で無理を通す困難を痛感したからかもしれない。
「いっそプロの登山家になっちまえばいいのに」
出発前の壮行会でかけられた一言に、小田切の心が大きく揺れたのを、たぶん、佐和だけが感じ取っていた。


叶の甥、敬介が、叶の遺品を回収にアラスカへ行く。
その噂は、かつて叶と交流の深かった人から人へ、口伝てに広まって、出発の半年前には、「一度あいさつに」という連絡が引きも切らず入ってくるようになった。
仕事では営業などしているが、小田切は元々、人付き合いに積極的なタイプではない。文字どおり閉口する彼を見るに見かね、佐和は提案した。
「いっそ、まとめてあいさつしたら? 壮行会……は、自分たちで開くもんじゃないから、お別れ会?」
それを聞いていた、クライミングジムオーナーの内藤が、「『お別れ会』じゃ縁起が悪い」と言って、壮行会の主催を買って出てくれた。山岳関係者が多い都合上、馴染みが深く集まりやすい、楡生高原のプチホテルを貸し切っての食事会だ。
当日は、叶と交流のあった人たちに加え、小田切や佐和の個人的な友人、知人、果ては佐和の両親まで駆けつけてくれた。
定年退職して、いざ山に登るぞと息巻いている父はともかく、母は三十半ばまで山に明け暮れ、とうとう海外の山に登ると言い出した佐和を危ぶんでの出席だ。「登山に便利だから」というだけの理由で、自宅に居候までさせてもらっている小田切に、せめて直接あいさつがしたいと言うものだから、何を言い出すかと思っていたが、当日はなごやかに言葉を交わし、気付いたらすっかり小田切にほだされていた。「陰のある、折り目正しい、控え目な」小田切に、心を掴まれてしまったらしい。「あんたもせめて小田切くんくらいデリカシーがあればねぇ」と言われ、佐和は苦笑するしかなかった。
なごやかに流れていく時間の中で、会場となったホテルオーナーの渡邊と話していたときだ。日程の確保に苦労したと語る佐和に、叶の登山仲間だったという男性が口を挟んだ。
「そんなまどろっこしいことしなくても、いっそプロの登山家になっちまえばいいのに。敬介、本当に、プロにはならないのか?」
「――」
一瞬、佐和は絶句した。ぬくぬくとくつろいでいたところへ、頭から冷や水をかけられた気分だった。
今まで何度も似たようなことは言われてきた。自分がいるところでもそうなのだから、いない場所ならもっとだろう。だが、何度聞いたところで、慣れるというものでもない。
どんな難ルートを登ろうとも、たとえ記録に残るような登攀をしようとも、小田切も佐和もアマチュアだ。スポンサーを集め、山に登ることを生業としている、プロの登山家とは根本的に違う。
学生時代、就職活動を前にして、佐和は一生、登山は趣味にしておこうと決めた。「プロの登山家」などという選ばれた人間にしかなれない職は、端から念頭になかったが、山岳ガイドやネイチャーガイド、山小屋職員への勧誘は、まったくなかったわけではない。だが、佐和はそれを断った。山を職場にしてしまうと、今まで抱いてきた山へのあこがれが「仕事」に侵されてしまう気がした。加えて、自分を下界の「群れの社会」から引き離し、山に据えることにもためらいがあった――というより、それが一番だったかもしれない。両親がいて、友人がいて、多くの人間が生活している、下界の「群れ」から孤立するのが、なんとなく、おそろしかったのだ。
だが、その一方で、小田切と一緒にいると、時々思わずにはいられないのだった。「なぜこの男は山にいないで、ここにいるのだろう?」と――。
就職活動の頃には、叶の遭難直後で、山に住みたいとは思わなかったと言っていた。けれども、今は? 今、小田切を地上に縛り付けているのは何だ? 
それを考えると、目の前が暗くなる。
自分は、彼を地上につなぎとめる楔だと思っていた。だが、魂をザイルでつなぐ自分たちの愛が彼を縛り、自分の臆病が彼を生きづらくしているのだとしたら? それでも、佐和は彼を手放そうとは思えない。二人の魂はすでにザイルでしっかりとつながれているのだから――。
……だが、小田切はちらりと佐和に視線を向けると、静かに首を横に振った。
「資金集めに奔走して、名声のために登るのは、おれの性には合いません」
「ご期待に添えなくてすみません」と頭を下げる小田切に、小柄な年配の女性が口を開いた。
「なら、山小屋主はどう?」
長年、弓ケ岳山荘を守ってきた小屋主夫妻の妻だった。夫婦二人、かつて内藤とともに叶の後援会の中心的存在だった人でもある。
「わたしたちもまだ元気だけど、あと十年行けるかしらって話はしてるのよ。体力が落ちる頃には高原に下りたいわねって。あなたたち、興味があるならやってみない? 今すぐにじゃなくてもいいから」
――来るべきときが来たと感じた。今まで七年、佐和とともに下界に留まっていてくれたけれど、いつかこんな日が――彼が山へと誘われるときが来るだろうという予感は、常に佐和の心にあった。
どんなに人間の社会に馴染んでいるように見えても、小田切は山の生きものだ。家族で、社会で、群れで生きている瞬間も、魂はいつも山に呼ばれている。そして彼の魂もまた、せつないほど山に恋い焦がれているのだ。
彼もきっとわかっているだろう。彼にとっては、下界の群れにまぎれるより、山での孤独のほうが生きやすい。ユキヒョウがヒマラヤの断崖に棲み、ライチョウが高嶺のハイマツの陰に拠るように。山での彼と、「群れ」での彼、両方を間近で見ているからこそ、小田切の答えを聞くまでもなく、彼が山からの誘いを断れるはずがないことを、佐和はよく知っていた。
だが、意外なことに、小田切は返事を保留した。アラスカから帰るまではその先のことは考えられないというのが理由だった。それは佐和も同意見だったが――。
(帰ってきたらどうするつもりなんだ?)
ききたいと思うのと同じくらい、きくのがこわかった。
いい話だ。弓ケ岳山荘なら、小田切にも馴染みが深い。だが、彼が小屋を継ぐのなら、会社を辞め、二人で住んでいる今の家も処分することになる。そのとき佐和は、自分たちの関係はどうするつもりなのか。
こんな日が、いつか来るとわかっていた。だからこそ佐和は、小田切に約束をねだったこともあった。忘れもしない、初夏の上高地で、ニリンソウの白い絨毯を眺めながら、『いつかもし本当に山で暮らすときが来ても、佐和を置いていかない』と――。
けれど、そんな口約束で、小田切を縛り付けることなどできない。そんなこと、佐和もしたくない。だったら、自分がついていくのか? 何もかも、彼と山以外のすべてを捨てて――?
佐和には答えが出なかった。

 *

だが、いざ小田切の出した答えを聞いた今、佐和の心はおそろしいほどに澄んでいた。
自分が望んでいた答えはこれだったのだとわかる。まるでそれが自然の摂理であるかのように、小田切の決断を当然のこととして受け止めた。
「そっか。決めたんだ」
満ち足りた声音になった。小田切は安堵したように「ああ」と答えた。
「帰ったらすぐに準備を始める」
「そっか」
佐和はもう一度頷いた。
束の間の沈黙が二人のあいだに落ちる。小田切が何かを言おうと口を開く。けれども、佐和は遮るように先に口にした。
「俺も決めた。俺も行く」
「――」
シュラフがこすれる音がして、こちらを向いた小田切と目が合った。
「おまえだけなんてずるいよ。置いていくな」
反対するなよと目線で諭す。小田切が自ら生きる場所を決めたように、彼と行くと決めたのは佐和の意思だ。
しばらく佐和の顔を見つめていた小田切だが、やがてふっと目許で笑った。
「佐和、睫毛が凍ってる」
「おまえもだよ」
言い返して笑う。数日ぶりの笑い声だった。
外は相変わらずの嵐だ。
北壁で叶のザックとカメラを氷の中から回収し、周囲も可能なかぎり捜索した。だが、叶本人にはとうとう会えないままだった。
頂上を制して、下山時に天候が急変、地吹雪に遭遇。ただちに雪洞を掘り、テントを張ってビバーク二日目――二日目のはずだ。ひたすら体を横たえて体力を温存し、水も食料も節約している。まだまだいのちの危険は感じないが、このまま動けない日が続けば、死の確率は高まるだろう。
だが、小田切と話しているうちに、不思議と悲壮感は薄らいでいた。
おそらくは、長く極限状態に置かれたせいで、精神的におかしくなっている。加えて、もはや「天候ばかりはなるようにしかならない」という心持ちになってきた。もっとも、人は死ぬときはあっけなく死ぬ。叶が帰ってこなかったように、自分たちも帰れないかもしれない。だが、なぜだか佐和自身にも理由はわからないものの、本当に死ぬ気がしないのだ。
外では嵐が吠え猛っている。アラスカの雪嵐はこれだけ暴れてまだ収まる気配がない。白い白い、天も地も真っ白な地吹雪の中、この緑色のテントだけが、山肌にしがみついている様を想像する。
(……そういや、このテントが初夜だったなぁ)
唐突にそんなことを思いだした。
「なあ、小田切。帰ったらエッチしよ」
小田切が勢いよく噴き出した。
「……ああ」
「帰ったら、毎日天国暮らしだ。冬は小屋を閉めて、山に登ろう」
「ああ」
「愛してるよ、小田切」
滅多に口にしないその言葉に、小田切は笑い混じりの声で答えた。
「帰ったら、俺も言ってやる」
佐和は「そりゃ死ねないなぁ」とほほ笑んだ。


どれほどそうしていたのだろう。気づくと、ずっと聞こえていたはずの風の音が消えていた。完全な無音だ。
「佐和」
「うん」
シュラフを開け、体を起こす。
「前髪凍ってる」
「おまえもだって」
互いの前髪を払いながら、テントのジッパーを下ろし、何日かぶりに――確かめたら、三日ぶりだった――雪洞入り口の雪をどける。
「見ろ」
雲の切れ間から射し込む陽光が、雪に反射して目に刺さった。テントから上半身を乗り出し、手のひらをかざす。見晴るかす切り立った渓谷の彼方、嵐をもたらした分厚い雲が、デナリの向こうに遠のいて見えた。
「下山日和だね」
「だな」
二人、顔を見合わせる。生きているのだという実感が、ようやく湧いてきた。
「……叶さんが守ってくれたのかな」
今もこの山の一部となって、叶は眠り続けている。おそらくもう半永久的に、彼が見つかることはないだろう。それを「彼の本望だ」とか「愛した山に眠ることができて幸せだ」とか言う人間もいる。だが、現実はもっと淡々としていると佐和は思う。山はうつくしく、空は青く広く、白い嵐は数日で通り過ぎ、自分たちはここに生きて立っている。けれど、叶のときはそうではなかった。ただ、それだけのことだ。それでも、自分たちを結びつけ、ここに並んで立たせてくれた人に、今はもういないその人に、何かの意味をもたせたくなる気持ちがある。
小田切は黙って佐和の顔を見た。
「……行こうか」
立ち上がり、手を差し出される。それを力強く握り返す。生きている。彼も、自分も。
下山して、帰国したら、今度は二人で山小屋番だ。
「行こう」
「ああ、行こう」
汚れのない一面の純白に、二人はあたらしい一歩を踏み出した。
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天国はまだ遠く(冒頭) ――『天国に手が届く』 SS

2016-08-11
耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣に横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない、はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を飲んだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来た。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めたのだ。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

(つづく)

この孤独な地上に ーー『天国に手が届く』SS

2014-06-07
人間であることがわずらわしい。
久しぶりにそんな感情を思い出した。
高二くらいまでは、常にそんなことを思っていた気がする。均質を求められる教室で、耳障りな音ばかりあふれる雑踏で。山にいるときですら、ここに棲む動物になりたいと、祈るように思っていた。カモシカのように空と岸壁とに挟まれて生きることができたなら、どれほど自由で素晴らしいことか。
そんな社会的動物としてあやうい小田切を、かつて人間の側につなぎとめたのが叔父の叶だった。叶がいなくなる頃には小田切もそれなりに大人になり、うわべで笑うすべも覚えていた。それでも、週末ごとに一人山を彷徨った日々は、自分の生きる場所、死ぬ場所を探し求めていたのだと思う。
だが、今は佐和がいる。叶が打った支点(アンカー)に、佐和はしっかりとザイルをかけ、小田切を社会につないでくれている。頼もしいザイルパートナーが、人生の登坂も共にする伴侶になるまで、そう長い時間はかからなかった。
けれども、その頼みの綱ですら、時折風にあおられて大きく揺れることがある。たとえば今、仕事に忙殺され、山に登れず、クライミングジムに行く時間も、佐和とくつろぐ時間すらろくにとれずに、たとえようもない渇望感に苛まれているように。


四月の第一週はあっという間に過ぎ、隣家の桜も既に緑のほうが目立ってきていた。佐和と出会って五度目の春。恋人として迎える四度目の春だ。
風呂上がり、小田切はリビングのソファで髪を拭きながら深夜のニュースを眺めていた。
「今年は花見にも行けなかったな」
そう呟くと、キッチンでコーヒーを淹れていた佐和が「そうだね」と返す。
「でも、花見なんて、毎年きちんとはしてないだろ?」
たしかにそうなのだが、例年とは事情が違う。小田切はタオルを床に投げ出し、ソファの背もたれに首を預けた。
「いつもは山に行ってるからだろう」
鈍く痛む眉間を片手で揉む。
小田切が勤める化学繊維メーカーでは、この二月、アウトドアウェア向けのファブリックとして新たなハイエンドモデルを発売した。その発表の準備から今まで、小田切は九ヶ月以上営業にかかりきりだ。とくにこの三ヶ月は、休日出勤もめずらしくない状況が続いていた。当然、山には登れていない。
「正月に剱岳に登って以来だ。体がなまる」
嘆く小田切の横に、佐和が腰を下ろした。三人掛けのソファが沈む。「はい」と差し出されたカップをひとつ受け取った。うすい筋肉をまとったしなやかな腕が伸びてきて、小田切の頭を軽く抱き寄せる。
「登りたいよな……。まだしばらく忙しい?」
触れ合ったこめかみから響く、やわらかな声が小田切を甘やかす。小田切は無意識に肩の力を抜いた。
「新モデル発売後の営業は一通り終わったが、夏山シーズンはまだこれからだからな」
「そっか、一般登山者的には山開きってこれからか」
髪の先をゆるやかに梳く、指の感触が心地いい。目を閉じると、佐和の新緑のような体臭がほのかに香った。誘われるように鼻先を首筋にこすりつけ、唇を触れ合わせる。動物じみたしぐさに、佐和はくすぐったそうに笑った。
「落ち着くのはいつごろ?」
「そうだな……来月末くらいか」
「じゃあ、あと一月半だな。落ち着いたら、ちょっとゆっくりして、それからまた登ろうよ」
山へと小田切を誘う声は、目蓋の裏にうつくしい稜線を描き出す。
溶け残る雪。風に揺れる草花の芽吹き。五月の末、冬の眠りから目覚める岩峰。
鳩尾のあたりを、清らかな水がすぅっと走り抜けていくような清涼感があった。
今、自分がこの社会で生きて行けるのは、佐和がそばにいてくれるからだと思う。
山に登る歓びを共有できる無二のザイル・パートナー。日々の暮らしに渇いたとき、潤してくれる唯一の存在。
そんな相手に惹かれたのは、小田切にとってはとても自然なことだった。性別以前に、小田切の中では、人間は叶と、佐和と、それ以外に分かれているのだ。
けれども、彼が同様の感情と、同じだけの熱量を返してくれたのは、奇跡だったと思っている。恋人として、家族として、佐和が自分のそばにいてくれることに感謝せずにはいられない。
腕を上げ、佐和がしてくれているのと同じように、彼の頭を抱き寄せた。
「ああ、登ろう」
その日までこの渇いた地上で過ごすことも、彼がいるなら耐えられる。


五月の末、仕事がようやく一段落した土曜の朝、小田切が目を覚ますと、既にベッドに佐和の姿はなかった。午前九時。恋人とひさしぶりのセックスに耽溺した翌朝であれば、遅いとは言わないだろう。
顔を洗ってからリビングに向かう。と、玄関のドアが開き、外から佐和が戻ってきた。
「おはよう! 朝飯できてるよ。食ったら出かけよう」
はつらつと笑う笑顔は、初夏の太陽のようにいきいきしている。
「出かける? どこへ」
たずねる間にも、佐和は小田切に着替えを押しつけて急かし、慌ただしく朝食の準備を整えた。質問には、ふふっと笑うばかりで答えない。ケチャップをかけたスクランブルエッグを口に運びながら、小田切はやっと彼の服が軽登山用のパーカーであることに気付いた。
「今から山か?」
ろくに仕事の疲れがとれていない上に、昨夜の夜更かしだ。たいした登山は望めない。ならば、午後からジムに出かけるくらいでもいい気がする。
だが、佐和はにっこりと笑って言った。
「花見だよ、花見」
「花見?」
「できなかったって言ってたろ。いいから、助手席で寝てなよ。着いたら起こすから」
そう言って、朝食の片付けもそこそこに、小田切を車の助手席に押し込み、上機嫌でエンジンをかける。彼がそこまで言うならと、小田切は黙って従った。
溜まりに溜まった仕事の疲れと睡眠不足、心地よい車の揺れ。途中何度か休憩を取りながら、うとうとと眠っては目覚めを繰り返しているうちに、フロントガラスにはアルプスの山並みが見えてきた。松本インターで高速を下り、安曇野から山麓へ――ここまで来れば目的地はだいたいわかる。ヒントは「花見」だ。予想通り、佐和は沢渡の駐車場に車を駐めた。
「上高地か?」
たずねるというよりも確認だ。運転席のドアを閉めながら、佐和が笑った。
「徳澤園のブログに、今週末が満開だって書いてあったから」
さあ行こう、とザックを担ぐ。そこで小田切は自分が荷物をひとつも持ってきていないことに気づいた。
「待て。着替えどころか、財布すらないぞ」
「一式俺が持ってるから大丈夫だ」
「なら、荷物を貸せ」
だが、佐和は「いいんだよ」とほほ笑む。
「ずっと頑張ってた小田切にご褒美だ。週末の山岳リゾートに御一泊ご招待」
弾むように言って、「行こう」と誘う。あまりに楽しそうな笑顔に、つられて笑ってしまった。
三十代も半ばに差し掛かろうというのに、佐和という男は、山がからむと未だに少年のようにみずみずしく無邪気だ。悪気のない強引さも変わらない。そのおおらかさと行動力に、幾度となく助けられてきた。しみじみと愛しく思う。
バスに乗って三十分、上高地バスターミナルからのんびりと歩いて一時間。
佐和は、徳沢の明るい草地に荷物を下ろした。組み立てたテントの前に一面のニリンソウが揺れる。初夏の上高地の特等席だ。辺りは同じくニリンソウ目当てのハイカーで賑わっているが、テントの出入り口を立ち入り禁止のニリンソウ保護区域に向けてしまえば、他の人間は視界に入ってこない。
「はい」
ガスバーナーとコッヘルを使って淹れたコーヒーを差し出し、佐和は小田切の横に寝そべった。テントから顔だけを出して、ニリンソウとハルニレの森を眺める。
透明な日差し。遠いコマドリの囀り。かすかな小川の水音。ひんやりとした初夏の山の空気と、清楚な白い花の絨毯。人気のない森の奥へ、どこまでも続く花畑は、花は人に見られるために咲くものではないのだと教えている。
最近はもっぱら北アルプスへの登山口として通過するだけになっていたこの場所でも、今の小田切には十分なやすらぎだった。
「ごめんな、勝手に連れてきちゃって」
隣の佐和が、ちょっと困ったような声音で言う。
「疲れてるのはわかってたんだけど……でも、ずっと飢えてただろ?」
何に、という目的語を、佐和はあえてぼかしたようだった。だが、わかる。「ああ」と頷く。
飢えていた。渇いていた。山の風に、この清澄な空気に、見上げる峻険な頂に。
「ありがとう」
潤してくれるのは、いつも山と佐和だ。
小田切の感謝のことばに、佐和はほっとした笑顔になった。
「晴れてたら、来週末はどっか登りに行こうよ」
「ああ。雨が降ったら、内藤さんのとこに顔を出そう」
「そうだね。なあ、登るの、どこがいい?」
「腕慣らしにボルダリングがしたい」
「じゃあ、奥多摩は?」
「秩父もいいな」
「ああ、いいね」
他愛ない会話がふと途切れる。穂高から駆け下りて、梓川を渡ってきた風が、ざあっと吹き抜けていった。真珠の花弁が一斉に揺れる。
「……小田切」
佐和が小さく名前を呼んだ。人から隠れようとする臆病な小動物のように、慎重な声音で。
「ここに棲んでしまいたいね」
囁く声音が、小田切の胸を締め付けた。
家族で、社会で、群れで生きる生き物のはずなのに、気付けばいつも山に焦がれている。糧を得るために働く会社で、通り抜ける通勤電車の雑踏で、せつないほど山での孤独に恋い焦がれる。ここにいていいのかと誰かが問う。ここへおいでと山が呼ぶ。人混みの中で味わう、胸が苦しくなるような孤独までも、佐和は共有してくれる。
つがいを見つけたのだと感じた。
山で暮らす獣たちにも、つがう相手はかならずいる。山に焦がれる自分には、佐和がその相手なのだと改めて思った。この孤独な地上にあっても、自分は一人ではない。この感謝を、どう伝えたらいいのだろう。
抱きしめたい衝動を抑え、こめかみをこつんとぶつけた。髪を擦りあわせて愛おしむ。
「ひとつだけ、約束してくれないか」
せつなさとほほ笑みを混ぜた声で、佐和が言った。
「何だ?」
「いつかもし本当に山で暮らすときが来ても、俺を置いていかないって」
「――」
思わず振り返る。
こちらを見つめる佐和の目は、山の朝のように静かに澄んでいた。その奥で星のように瞬く不安は、いつからそこにあったのだろう。
彼の手を取り、握りしめた。
「約束する」
敬虔な気持ちで口を開く。
稜線から曙光を望むときのように。
「山と、空と、おまえに誓おう」
佐和は大きく目を瞠り、しあわせそうにほほ笑んだ。

『天国に手が届く』SS (『小説Dear+』2011年フユ号掲載)

2013-12-20
――ごめん。電車が止まった。遅れる。
携帯電話にメールが届いたのは、待ち合わせの十分前だった。誠実な恋人は、トラブルにでも遭わない限りまず遅刻することはない。
小さな画面から恋人の焦りが伝わってくるようで、小田切はふっと口元をゆるめた。微笑とともに漏れた吐息が、一瞬白く漂って消える。
今日は行きつけの登山用品店に寄ってから、いつものクライミングジムで一緒に汗を流す予定だった。とくに急ぐ必要もない。着いたら連絡してくれと返信して、駅前のコーヒーショップに入った。ロータリーが見渡せる窓際の席に腰を下ろし、来がけに買ってきた山岳雑誌を開く。
アイス・クライミングの特集記事を読みながら、次は氷瀑を登りに行くのもいいなと考えた。
佐和と過ごす冬山シーズンも二度目だ。北岳、谷川岳と山が続いているし、そろそろ氷も恋しい。網走に、流氷が着岸する時期だけ、海からアプローチできる氷瀑があったはずだ。あれなら佐和も登ったことはないだろう。来月の三連休あたり、どうだろうか。
(……北海道か。似合いそうだな)
恋人のやさしげな風貌を瞼に浮かべ、小田切は知らず、目許をなごませた。
今時の甘く整った顔立ちと、細身ながらバランスのいい体。筋肉がつきにくい体質を本人はときどき不満そうにこぼすが、そんなところも小田切はひそかに気に入っている。物腰もやわらかいので、知らない人間が見たら、ハードな山岳登攀を趣味にしているとは思わないだろう。見た目だけなら、氷瀑よりも雪の小樽のほうがよほど似合いそうだ。存外気が強いので、迂闊にそんなことを口走ったら怒り出しそうだが。
(小樽か)
数年前、友人の結婚式で訪れた街を思い出す。
(……たまにはのんびり観光なんてのもありかもな)
考えながら、コーヒーを口に運んだ。
雪明かりの運河沿いをそぞろ歩き、うまい海鮮を食べて、上質なホテルに泊まる。そういえば札幌の雪祭りもそろそろだ。たまにはそんな旅行もいいかもしれない。いや、それならわざわざ北海道まで行かずとも、蓼科か軽井沢あたりの静かなホテルでのんびりするのはどうだろう……。
つらつら考えていたら、耳のあたりでふいにコンコンと窓が叩かれた。
視線を上げたガラスの向こうで、待ち人がほほ笑んでいる。冬空に溶け込むような淡いブルーのマフラーが、目の前でふわりと揺れる。
行くからそこで待っててとジェスチャーで示すのに頷き、後ろ姿を見送った次の瞬間、思わず笑いがこみ上げてきた。
(……おれは今、いったい何を考えてた?)
「待たせてごめん。……何、どうしたの」
入り口から回ってきた佐和が、一人くつくつと笑っている小田切に首をかしげる。
その顔を見上げ、ものは試しと訊いてみた。
「佐和、小樽か軽井沢あたり、行く気はあるか?」
「え? そんなとこ、登りたくなるような山あったっけ?」
恋人はまったくいつもの調子だ。小田切と一緒にどこかへ行くといったら、山だと信じて疑わない。それが今は少しだけ残念にも思える。――普段なら自分だって似たり寄ったりなのだけれど。
「いや。……だよな」
堪えきれずにまた吹き出してしまった。
(まいった)
本当に、らしくない。
山岳雑誌まで広げてクライミングのことを考えていたはずが、気づいたら気持ちが横道にそれていたなんて。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。
「なんだよ」
向かいの席からいぶかしげな視線を向けてくる佐和に、まだ少し笑いの混じる声で言う。
「いや……、すごいな。おまえのことを考えてると、おれは山のことまですっ飛んでいくらしい」
「は?」
さっぱりわからないと首を捻る恋人の膝に自分の膝をこつんと当て、小田切はその幸福感にほほ笑んだ。
「おまえは、おれにとって何よりも特別ってこと」


(『小説Dear+』2011年フユ号より転載・編集部許可済)

楽園はこの手の中 ――『天国に手が届く』SS

2013-10-31
平地でも秋の気配がただよいはじめた九月の週末、内藤ジムで落ち合って一汗流した後の食事時だった。
いつものようにウーロン茶のグラスを傾けながら、小田切が切り出した。
「佐和、次の三連休だが、」
「うん、どこ行く? 紅葉はまだちょっと先だしなぁ」
いつもの誘いに、いつもの返事。佐和のほうはそのつもりだった。
九月なかばの高山は、夏山と紅葉の谷間の時期で、束の間、ひっそりとした秋の静けさに包まれる。連休とはいえ、ハイシーズンに比べれば、そこまで人出は多くないだろう。この時期ならば、普段人混みを避けて登らないメジャールートもいいかもしれない。具体的にはどこがいいだろう……。
ひとしきり山に思いを馳せていたが、気づくと小田切から反応が返ってこない。
「?」
視線を向け、彼の顔を見て初めて佐和は自分の失敗を悟った。こちらを見る恋人の目が、わずかに苦笑していたからだ。
(しまった……!)
ついいつもの調子で、山への誘いだと思ってしまった。でも、違ったのだ、たぶん。今のは、もしかしたら、いやきっと――。
だが、焦った佐和が口を開く前に、小田切は最初からそのつもりだったかのように次の言葉を口にした。
「そうだな。せっかくの連休だし、のんびり表銀座でも歩きに行くか。おまえ、最近とくに忙しくしてただろう」
そして彼と山に行けるとなると、佐和は頷かずにはいられないのだ。
「……うん」
表銀座――長野県安曇野市の登山口から燕岳へ登り、標高二五〇〇メートルを超える稜線をたどって槍ヶ岳へと至る縦走路の通称だ。槍や穂高の眺めがうつくしく、そのぶんハイシーズンの休日には避けたい人気ルートでもある。比較的静かに歩けるなら行きたいに決まっている。
でも今回ばかりは、頷きながら、自分の鈍感さにちょっとへこんだ。


佐和が小田切と恋人になって一月。互いに気持ちを伝え合い、一度はからだを繋げたにもかかわらず、二人の日常にはこれといって大きな変化はなかった。
いくら山に登るために生まれてきたような二人でも、ひとたび下界に下りれば普通の会社員だ。同じ社内で同じプロジェクトに携わっているとはいえ、営業の小田切と開発の佐和では就業中に顔を合わせる機会は多くはない。加えて、週末には以前と同様、山やジムへ一緒に行き、心身共に充実した時間を過ごす。ふと我に返ってみると、何が変わったのだろうと思ってしまう有様だ。
強いて変わった点を挙げるなら、小田切が佐和に向ける視線は、よりやわらかく穏やかになり、それでいて恋をしている人間独特の熱っぽさを隠さなくなった。それは自分も同じかもしれない。たとえばジムの難ルートを登る小田切に見惚れているとき、自分の視線が山仲間の範疇を超えた熱を帯びていることに気づく。そして、それを許されている幸福を噛み締めるのだ。
だが、変わったと言えば本当にそのくらいだった。佐和はそれで満足していた。ごまかさずに言えば、正直ほっとしている部分もあった。
制御不能な切迫した情熱に突き動かされ、稜線のテントでからだを繋げた槍ヶ岳での一夜。狂おしい記憶は、平地での日常に戻り、冷静になった今や、佐和の羞恥心を強烈に刺激する。
後悔しているわけではない。伝えられないと思っていた気持ちが通じ合ったよろこび。小田切が自分を選んでくれたという泣きたくなるような幸福感。もしあの日をやり直すことができるとしても、佐和はきっと、あのとき、あの場所で、彼を求めずにはいられないだろう。
だが、なにもあんなところで……と、佐和の中の理性が呟くのだ。冷静に考えれば下山後でもよかったはずなのに、互いにどれだけ切羽詰まっていたのか――。思い出すだけで、叫びながらそこらじゅう走り回りたくなってしまう。
おそらく小田切も同じなのだろう。あのときは翌日の出発を遅らせたせいで最終的に時間の余裕がなくなってしまい、下山後まっすぐ帰宅した。だが、恥ずかしい記憶というのは、時間が経てば経つほどいたたまれなさが増すものだ。直後にきちんとやり直せなかったせいで、あの一夜はますます触れにくい記憶になってしまっていた。
不安なわけではない。もともとザイルパートナーとして惚れ込んだ相手だ。山を介した価値観や世界観、死生観は、ぶれることなく、深いところで二人を結びつけている。でも、だからこそ、わざわざ恥ずかしい記憶を掘り起こさなくてもという気持ちも湧いてしまうのだ。
小田切のことは恋愛対象として好きだ。
けれど、恋愛感情だけで結ばれているわけではないぶん、タイミングを見誤ると、仕切り直すのは相当難しいらしかった。


(……でも、たぶん、小田切はやり直そうとしてくれてたんだ)
連休初日、小田切の車で登山口に向かいながらも、佐和はこれから登る山に集中できないでいた。
車は既に松本の市街地を越え、安曇野の長閑な風景の中を走っている。だが、北アルプスの雄大な尾根を眼前にしてさえ、佐和の意識は運転席の恋人へと向かっていた。
(俺、こんなに鈍かったかな……)
我ながら、あの日の反応は、人並みに恋愛を経験してきた大人にしては幼稚すぎた。それだけ小田切との山行が楽しくてしかたないということでもあるのだが、言い訳にもならないだろう。
(せっかく小田切が切り出してくれたのに)
きちんと応じていられたら、今頃どうしていただろう。映画でも見て、買い物でもして……いや、そんなステレオタイプなデートは自分たち二人ではありえない。登山用品店をひやかして、内藤ジムで汗を流し、あとはホテルか、それともまだ見ぬ彼の自宅か……少なくとも山に向かってはいなかったはずだ。
山を目の前にして憂鬱になるなど、普段の佐和なら絶対にない。けれど今、佐和ははっきりと後悔している。そんな佐和の気分を反映したかのように、北アルプスの尾根にも憂鬱な雲が垂れ込めていた。それをじりじりした気持ちで見つめる。ラジオの天気予報を聞く限り、この三連休は秋晴れを望めそうにはない。
やがて、最初の雨粒がフロントガラスに落ちてきた。その瞬間、佐和は心を決めた。隣の恋人に声をかける。
「降ってきたね」
「ああ」
「小田切、今日、どうしても山に登りたい?」
「――」
質問の意味がわからないという表情で、小田切がちらりと視線を投げて寄越した。
「……あのとき、おまえ、山よりおまえが大事って言えって言っただろ」
稜線の夜の睦言に、なめらかだったハンドリングが一瞬乱れる。
そのまま車は道の路肩に停車した。フロントガラスに増えていく雨粒から、佐和は視線を外した。
「ごめん。俺、今は山よりおまえのほうがずっと気になってる」
小田切の顔は、どうしても見られなかった。


北アルプスの麓の温泉街で、小田切は車を停めた。何本か電話をかけ、さらに移動する。
彼が次に車を駐めたのは、山間のリゾートホテルだった。チェックインを待つついでに、ロビーラウンジで昼食をとる。その間、小田切はいつにも増して寡黙だった。
やがて通されたのは、南東向きの開放的な部屋だった。大きな窓からは、常念岳と蝶ケ岳の頂を目の前に望むことができる。
「小田ぎ……ちょっ、わっ」
ポーターが出て行くなり、凄まじい力でベッドに引き倒され、佐和は慌てた。
「いきなりかよ!」
「おまえが煽るからだろうが!」
まるで飢えた獣の咆吼だ。山での小田切は基本的に寡黙で無愛想だが、こんなふうに声を荒げるのはめずらしい。思わず抗議の声も引っ込む。
「……ふっ、」
のしかかられ、キスを貪られる。「喰われる」という表現がぴったりだった。やや荒っぽいが、不快なわけではない。
(ちゃんと、恋人として求めてくれてる)
そう思うと、言い表せない安堵と興奮に満たされる。
積極的に応え、深く舌を絡め合った。徐々に高まっていくからだとは裏腹に、ようやく最初の動揺から立ち直る。
「小田切」
自分の首筋に歯を立てている愛しい獣の髪に指を差し込み、混ぜ梳いた。
「悪かったよ。……けど、今度はさ、ちゃんと落ち着いてしたいんだ」
髪に口づけるようにしてささやくと、彼はぴたりと動きを止めた。熱された黒曜石の眸が佐和を射る。視線を合わせ、真情を込めて言った。
「今度こそ落ち着いて、恋人らしく、きみとしたい。――しよう?」
小田切は一声低く唸って、もう一度佐和の鎖骨に噛みついた。


意識がゆっくりと浮上していく。幸福な倦怠感とからだの軋み。目を開けると、南西向きの部屋は夕暮れ色に染まっていた。カーテンを閉め忘れていたらしい。
からだを起こし、床に放り出されていたベッドリネンを適当にまとって、佐和は窓辺に立った。常念岳の頂にかかる低い雲間から茜色の光が射し込んで、山と雲に照り映えている。神秘的なまでにうつくしい夕焼け空だった。
かろうじて顔を見せている蝶ケ岳の頂を眺める。もし予定通りに山に登っていたなら、今頃はあの山並に連なる稜線上にいたはずだ。だが、心の隅々まで見渡しても、一片の後悔も見あたらなかった。
山はいつだってそこにある。佐和が登っても登らなくても、こうして麓から眺めているときも――いつかこの世からいなくなる日が来ても、あの稜線は変わらずうつくしい。佐和はそれを知っている。だから今日、今でなければならなかった小田切との進展を優先したのは、佐和にとっては当然のことだ。
実際、自分の選択は間違っていなかったらしい。山に焦がれ続ける佐和の人生の中でも、これほど満ち足りた気分で山の麓から頂を眺めることはそう多くはないだろう。目の前に山があれば登りたくなる。佐和も小田切も、元来そういう生き物だ。
「佐和」
名前を呼ばれて振り返ると、ボトムだけ身に着けた小田切がコーヒーのカップを両手に立っていた。
「ありがとう」
受け取って、佐和はほほ笑む。
「あのときも、翌朝コーヒー淹れてくれたよな」
照れくさいのか、小田切は口元で小さくほほ笑み返しただけだった。「寒いだろう」と佐和が開けていた窓を閉める。
「……体はつらくないか」
遠慮がちな問いに、佐和は笑った。
「痛くないって言ったら嘘だな」
「……」
「そんな顔するなよ。そんなの気にならないくらい、満ち足りてるんだから」
カーテンを閉じ、小田切に向き直る。彼の首に両腕を回す。
「俺の『天国』は山の上だけど、楽園ならこの手の中にあるんだなって思ってた」
瞠目した小田切は、やがてやわらかな笑みを浮かべた。敢えて言葉にしなくとも、彼も満ち足りているのだとわかる表情だった。
やさしい口づけが下りてくる。
佐和は目を閉じ、恋人のキスを味わった。
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