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春宵 ――『ハイスペックな彼の矜持と恋』SS

退社間際、エレベーターホールでのことだった。
「槙さん、再来週の異業種交流会行きません?」
後輩に声をかけられ、槙はにべもなく断った。
「行かない」
「えー、なんでっすか」
隣に立っていた三隅が、黙って片眉を跳ね上げる。
リサーチャーの槙は、日夜公私問わず全方向にアンテナを張り、情報収集にいそしんでいる。もちろん異業種交流会も例外ではない。無駄に思える雑談の中にも、時として重要な情報の手がかりはひそんでいる。そう槙が考えていると知っていての反応だ。
(有益な情報が手に入る場なら、無理を通してでも行くんですけどね)
心の中で肩をすくめ、「一緒に参加しましょうよー」と食い下がる後輩を横目に見やった。
「きみの言う『交流会』は、いわゆる合コンのことだろう。まともなビジネス交流会ならやぶさかじゃないが、再来月までめぼしいものはなかったはずだ」
槙の指摘に、後輩はぐっと言葉に詰まった。しどろもどろに弁解する。
「いやでも、たまにはそういう出会いの場もいいじゃないですか。もしかしたら、女の子たちの噂話に、役立つ情報が含まれてるかもしれないですし……」
「その可能性は否定できないが」
「でしょでしょ? ねえ、行きましょうよー。槙さんがいたら絶対女の子たち喜びますって!」
「それが本音だろう。行かないよ」
「そう言わず。いいじゃないですか、今カノジョいないでしょ?」
「どうしてそう思うんだ」
槙の切り返しに、後輩が「えっ」と目を丸くする。
立ち尽くす彼を置き去りに、やってきた無人のエレベーターに乗り込んだ。もちろん三隅も一緒にだ。後輩も慌てて追いかけてくる。
「槙さん、つきあってる人いるんですか?」
好奇心丸出しの質問に、リサーチャーには向いていないなと思いながら、槙は口許で微笑んだ。
「いるよ」
どんなに些細なことでも、情報には価値がある。もちろん、槙自身に関することでも。
だから、普段はそれを無闇に垂れ流すことはしない。だが、恋人と過ごす週末に、この情報開示はちょっとした刺激になってくれるだろう。
槙の思惑をよそに、後輩は「まじっすか!?」とすっとんきょうな声をあげた。
「えー、知らなかった! 槙さん、むっちゃ忙しいのによくつきあってくれますね!? どんな人ですか? 美人ですか? 槙さんのカノジョだもんなー。めっちゃきれいな人なんでしょ!?」
「『美人』とか『かわいい』とかいうよりは、頭がよくて格好いい」
「ああ、槙さん、そういう人似合いそうですもんね。できる大人の女かー、憧れます」
どこまで妄想を膨らませるのだと内心苦笑しながらも、槙は否定しなかった。
「独占欲が強くて嫉妬深いけどな」
「げ」と、後輩があからさまに嫌な顔をする。
興味がない素振りでスマートフォンを見ていた三隅が、ちらりとこちらを見た気がした。
槙は涼しい顔で受け流した。


外に出ると、東京の桜は既に散り初めだった。
槙たちの勤めているコンサルティング・ファームでは、社員総出の花見などは催さない。やりたいやつは個人でやれ。そういうドライな社風が、槙の肌には合っている。槙自身、人でごったがえす公園の地べたに座り込んで騒ぐより、雰囲気のいい店で、きれいに生けられた桜を眺めながら飲むほうが好みだ。
「……けど、これはちょっと想定外でしたね」
開け放たれた障子の向こうを眺めながら、槙は素直に内心を吐露した。
「こういった趣向は嫌いか?」
江戸切り子の猪口を口に運んで、向かいの男がたずねる。元より迫力のある美丈夫だが、今夜は怜悧な美貌が夜桜に映え、さえざえとした凄みを感じさせた。
かなわないなと思う。男としてはくやしい。だが、それ以上に心の襞を快く掴まれる感じが嫌いではない。無論、相手が三隅だからこそだ。
「好きですよ。でも、いきなり連れてこられると驚きます」
三隅が槙を伴って向かったのは、知る人ぞ知るといった顔の小料理屋だった。だが、店の奥に通されると、そこには坪庭を囲む小さな座敷が並んでいた。
坪庭では、遅咲きのしだれ桜が、今を盛りと満開だ。美しく整えられた庭は、部屋からよく見通せるものの、うまく視線を逃す工夫がされていて、隣や向かいの部屋に人の気配はあれど、顔は合わせないで済む。宿としても使えるようで、いかにも「お忍びで使う隠れ家」の風情だった。
以前、三隅に連れて行かれた築地の高級料亭では、その圧倒的なグレードにおののいたものだが、これはこれで、どうやって知るのだろうと不思議になる。
「情報収集は本来、俺の仕事なんですが」
槙のぼやきに、三隅は口角を引き上げた。
「きみにこういう店を教えておくと、いずれ倍にして返してくれるだろう」
「ご期待に添いたいところですが、この倍はなかなか難しいですよ」
「そんなことはないさ」
と男は笑った。
「独占欲が強くて嫉妬深い恋人に、少しやさしくしてくれればいい」
帰り際のささやかな情報戦は、思いのほか効いていたらしい。
「それはもちろん」と笑みを返し、槙は切り子の猪口を置いた。

その他作品

春宵 ――『ハイスペックな彼の矜持と恋』SS

2018-04-02
退社間際、エレベーターホールでのことだった。
「槙さん、再来週の異業種交流会行きません?」
後輩に声をかけられ、槙はにべもなく断った。
「行かない」
「えー、なんでっすか」
隣に立っていた三隅が、黙って片眉を跳ね上げる。
リサーチャーの槙は、日夜公私問わず全方向にアンテナを張り、情報収集にいそしんでいる。もちろん異業種交流会も例外ではない。無駄に思える雑談の中にも、時として重要な情報の手がかりはひそんでいる。そう槙が考えていると知っていての反応だ。
(有益な情報が手に入る場なら、無理を通してでも行くんですけどね)
心の中で肩をすくめ、「一緒に参加しましょうよー」と食い下がる後輩を横目に見やった。
「きみの言う『交流会』は、いわゆる合コンのことだろう。まともなビジネス交流会ならやぶさかじゃないが、再来月までめぼしいものはなかったはずだ」
槙の指摘に、後輩はぐっと言葉に詰まった。しどろもどろに弁解する。
「いやでも、たまにはそういう出会いの場もいいじゃないですか。もしかしたら、女の子たちの噂話に、役立つ情報が含まれてるかもしれないですし……」
「その可能性は否定できないが」
「でしょでしょ? ねえ、行きましょうよー。槙さんがいたら絶対女の子たち喜びますって!」
「それが本音だろう。行かないよ」
「そう言わず。いいじゃないですか、今カノジョいないでしょ?」
「どうしてそう思うんだ」
槙の切り返しに、後輩が「えっ」と目を丸くする。
立ち尽くす彼を置き去りに、やってきた無人のエレベーターに乗り込んだ。もちろん三隅も一緒にだ。後輩も慌てて追いかけてくる。
「槙さん、つきあってる人いるんですか?」
好奇心丸出しの質問に、リサーチャーには向いていないなと思いながら、槙は口許で微笑んだ。
「いるよ」
どんなに些細なことでも、情報には価値がある。もちろん、槙自身に関することでも。
だから、普段はそれを無闇に垂れ流すことはしない。だが、恋人と過ごす週末に、この情報開示はちょっとした刺激になってくれるだろう。
槙の思惑をよそに、後輩は「まじっすか!?」とすっとんきょうな声をあげた。
「えー、知らなかった! 槙さん、むっちゃ忙しいのによくつきあってくれますね!? どんな人ですか? 美人ですか? 槙さんのカノジョだもんなー。めっちゃきれいな人なんでしょ!?」
「『美人』とか『かわいい』とかいうよりは、頭がよくて格好いい」
「ああ、槙さん、そういう人似合いそうですもんね。できる大人の女かー、憧れます」
どこまで妄想を膨らませるのだと内心苦笑しながらも、槙は否定しなかった。
「独占欲が強くて嫉妬深いけどな」
「げ」と、後輩があからさまに嫌な顔をする。
興味がない素振りでスマートフォンを見ていた三隅が、ちらりとこちらを見た気がした。
槙は涼しい顔で受け流した。


外に出ると、東京の桜は既に散り初めだった。
槙たちの勤めているコンサルティング・ファームでは、社員総出の花見などは催さない。やりたいやつは個人でやれ。そういうドライな社風が、槙の肌には合っている。槙自身、人でごったがえす公園の地べたに座り込んで騒ぐより、雰囲気のいい店で、きれいに生けられた桜を眺めながら飲むほうが好みだ。
「……けど、これはちょっと想定外でしたね」
開け放たれた障子の向こうを眺めながら、槙は素直に内心を吐露した。
「こういった趣向は嫌いか?」
江戸切り子の猪口を口に運んで、向かいの男がたずねる。元より迫力のある美丈夫だが、今夜は怜悧な美貌が夜桜に映え、さえざえとした凄みを感じさせた。
かなわないなと思う。男としてはくやしい。だが、それ以上に心の襞を快く掴まれる感じが嫌いではない。無論、相手が三隅だからこそだ。
「好きですよ。でも、いきなり連れてこられると驚きます」
三隅が槙を伴って向かったのは、知る人ぞ知るといった顔の小料理屋だった。だが、店の奥に通されると、そこには坪庭を囲む小さな座敷が並んでいた。
坪庭では、遅咲きのしだれ桜が、今を盛りと満開だ。美しく整えられた庭は、部屋からよく見通せるものの、うまく視線を逃す工夫がされていて、隣や向かいの部屋に人の気配はあれど、顔は合わせないで済む。宿としても使えるようで、いかにも「お忍びで使う隠れ家」の風情だった。
以前、三隅に連れて行かれた築地の高級料亭では、その圧倒的なグレードにおののいたものだが、これはこれで、どうやって知るのだろうと不思議になる。
「情報収集は本来、俺の仕事なんですが」
槙のぼやきに、三隅は口角を引き上げた。
「きみにこういう店を教えておくと、いずれ倍にして返してくれるだろう」
「ご期待に添いたいところですが、この倍はなかなか難しいですよ」
「そんなことはないさ」
と男は笑った。
「独占欲が強くて嫉妬深い恋人に、少しやさしくしてくれればいい」
帰り際のささやかな情報戦は、思いのほか効いていたらしい。
「それはもちろん」と笑みを返し、槙は切り子の猪口を置いた。

『あなたのものにしてください』電子書籍発売のお知らせとSS

2018-04-01
こんにちは。今年の春は駆け足ですね。桜ももう散り初めです。
先日、京都鉄道博物館でお花見してきました。動態保存しているSLスチーム号から、隣の公園の桜がよく見えるのです。

さてさて、2月刊『あなたのものにしてください』(ill. 秋吉しま先生・プラチナ文庫)の電子書籍が発売になっておりましたので、お知らせいたします。電子書籍派の皆さん、お待たせしました。どうぞよろしくお願いいたします。

というわけで、ちょっと前にTwitterではやっていたSS名刺メーカーなるもので、SSカードを作ってみました。

SSメーカー

瑞希くんと黒川さんは、つつがなく甘く甘くラブラブいちゃいちゃとつきあっていきそうで、波風が立たないぶん、SSも書きやすいような、書きにくいような…です。

楽園を手作りしよう ――『楽園暮らしはどうですか?』SS

2017-08-28
朝霞がベッドにノートパソコンを持ち込むことについて、市川はあまりいい顔をしない。
つきあいだして間もない頃、朝霞は何度かベッドにパソコンを持ち込んだ。市川は、「ベッドでまで仕事なんて!」と言うが、なにも仕事をするためじゃない。
そもそも朝霞はオタク気質である。ご多分にもれず、スマートフォンやパソコンで何かを読んだり調べたり、SNSで仲間と語らったりするのが好きだ。SNSやネットニュース程度ならスマホですませてしまうのだが、動画や調べものになると小さなスマホの画面ではもの足りない。ついついパソコンをベッドに引きずり込んでしまう。
だが、市川とつきあいだしてからは、彼とベッドで過ごす時間も、かけがえなく心地いいと思うようになった。夏場だって、エアコンで冷やした部屋の中、ベッドでなんとなくくっついて、SNSを眺めたり、動画を見たり、そのうち興味を惹かれたことを調べたり……そのあいだに、彼と触れ合った素足をすり合わせてみたり、ふと悪戯心を起こして寝ている市川の脇腹をくすぐってみたり、起きているときにはできない自分からのキスをしたり、そのうち目を覚ました市川にキスされたり……。そういう、恋人とベッドでじゃれあって過ごす心地よさを知ってしまったら、なかなかベッドから出る気になれない。ので、つい、スマホやらパソコンやらをベッドに持ち込みたくなってしまう。本音を言えば、飲み食いもベッドですめばいいのにとさえ思っている。
でも市川は、ベッドの上で朝霞の意識が彼以外にそれるのが気に入らないらしかった。「ベッドは二人でいちゃいちゃするところだろ」というのが彼の言い分だ。「いちゃいちゃ」って。いい年した大人が口にする言葉じゃない。あきれつつも、彼の甘く整った顔に子供っぽい甘えた言い方は思いがけず似合っていて、ついつい赤面してしまった朝霞である。イケメンずるい。
そんなわけで、ここのところ、ベッドにパソコンを持ち込むのはやめていたのだが、今朝はどうしても我慢できなかった。起きるなり机に置いていたノートパソコンを取りに行き、まだシーツに体温が残るうちにベッドへ戻る。うつぶせになり、枕を胸の下に押し込んでパソコンを開いた。
「智行……?」
昨夜遅番だった市川が、眠そうに目をこすりながら名前を呼ぶ。
「すみません。もう少し寝ていてください」
彼を気遣って言ったつもりが、適当にあしらおうとしているように聞こえたらしい。市川は顔をしかめてあくびをしつつ、体を反転させて起き上がった。ぴったり体の側面を朝霞にくっつけて隣に並ぶ。ちゅっとこめかみにキスされた。
「昨夜はあんなにかわいかったのに……」
「パソコンいじってる俺はかわいくないですか?」
何気なくそうきくと、市川は一瞬目を丸くした。それから、ふわっと蕩けるように微笑する。
「智行がそんなこと言えるようになるなんてなぁ。おれの愛情が着実に実を結んでる感じ」
「……生意気になったとは思わないんですか?」
「俺の愛を疑ってもないってことだろ? おれの愛を信じ切って、その上にあぐらかいてるおまえは最っ高にかわいいよ。おれのほう向いてくれないのはつまらないけど」
こっち向いて、と頭を抱き寄せてキスをされる。たわいない焼きもちに、朝霞は「もう」と小さく笑った。
「で? 何調べてたんだ?」
市川がパソコン画面を覗き込んでくる。彼にも見やすいように体をずらしながら、朝霞は答えた。
「クラウドファンディングってどうやるのかと思って……」
「クラ……なんだって?」
「クラウドファンディング。要は、事業に賛同してくれる出資者を一般に募って、事業資金を集める手法です。目標額を達成したら、それを元手に事業を展開し、出資者には事業に関連する謝礼品で還元する……」
ハウツーページを見せながら説明すると、市川は「ふぅん」と首をかしげた。
「で、何をするのに、そんなに金が必要なんだ?」
よくぞきいてくれました、とばかりに、朝霞は市川を振り返った。
「白浪線の観光鉄道化です!」
今年三月で廃線になった白浪線の跡地は、一部の商業地や住宅地周辺を除いて、未だにほとんど買い手が付いていない。鉄道ファンに人気の高かった入江谷駅付近もその一部だ。白浪線と共に引退した一〇〇系車輌も会社の倉庫で眠っている。あれを買い取り、有志鉄道ファンによる保存・展示運転や運転手体験などができる観光鉄道に整備できたら、白浪線の風景も一〇〇系車輌も、一部ではあるが残すことができる。ついでに、不良債権扱いの土地も一部処分でき、かいでん的にもプラスになるはずだ。
「資金がネックなんですけど、事業自体は不可能ではないと思うんです。当然、社の協力は必要になりますが、クラウドファンディングは使っていないにしても、鉄道ファンによる保存・展示運転は、岡山の片上鉄道の例なんかもありますし、海外にもさまざまな例があるので……」
朝霞の勢いに、市川は最初あっけにとられたようだったが、やがて愉快そうに目を細めた。
「面白そうだな。でもそれ、ウチでやればいいんじゃないか?」
なにもクラウドファンディングなんてしなくても、と言う市川に、朝霞は首を横に振った。
「そんな余計な事業に回せる体力はウチの社にはありません」
「あー、やっぱり?」
「でも、逆に資金調達と事業運営の目処さえ立っていれば、話は聞いてもらえると思うんです。できれば、設備が荒れたり買い手が付いたりする前に企画書を出したいんですけど……」
以前から仕事の片手間に少しずつ調べてきて、残る問題は資金調達だけだった。突如天啓が下りてきたのは昨夜。市川を待つ片手間に眺めていたSNSの投稿から、クラウドファンディングの存在を思い出したのだ。そのすぐあとに市川がやってきて、調べものは途中になってしまったが、朝起きて思い出したらもう我慢できなかった。
「すみません。ベッドにパソコン持ち込むの、やめてたんですけど……」
少々気まずく視線を落とす。市川は筋張った脛で朝霞の脹ら脛をスリッと撫で、頬に軽くキスを寄越した。
「いいよ。智行が電車に夢中になって目をキラキラさせてるの、かわいいし。実行するなら、もちろんおれも協力する」
思わず「本当ですか!?」ととびついた。市川がふっと目を細める。
「入江谷っていったら、おれたちの思い出の場所だもんな」
「!」
思いがけないことを言われ、朝霞は目を見開いた。じわじわと頬が熱くなる。
半年前、波濤とどろく入江谷の駅で顔を合わせたのが、二人が親しくなるきっかけだった。あの雪の降る駅での出会いは、朝霞もはっきりと覚えている。
「それだけが理由じゃないですけど……。じゃあ、企画が通ったら、慎也さん、宣伝部長やってください。女性ファン、たくさん集めてくださいね」
冗談めかした朝霞の言葉に、市川は余裕綽々でにっこりと頷いた。
「智行のためならいくらでも」
もうひとつキスが落ちてくる。
職場も一緒。プライベートも一緒。でも、またひとつ、一緒にできることが見えてきて、最高にわくわくする。
再び入江谷の駅で、運転士姿の恋人を見られるかもしれないと想像し、朝霞は心から幸福にほほ笑んだ。

賢者タイムがやってきました。――『運命の転機は三十歳でした。』SS

2017-01-26
「――……ッ」
荒く大きな呼吸をひとつ。多岐川の中から退いて、力尽きたように東元が覆い被さってくる。全身でその重みを受け止めることになり、多岐川は「うぇっ」とも「ぐぇっ」ともつかない濁音を喉の奥から押し出した。
「ちょっ……どけ、重い!」
「透」
肩で息をつきながら、東元はおかまいなしに多岐川を抱き締めてくる。多岐川の額に張り付いた髪を掻き上げ、まじまじと顔を覗き込む。
「起きてるな」
確認するように言われ、多岐川はにっと笑った。
「おかげさまで」
つきあいはじめて四ヵ月。幾度となくからだを重ねたが、多岐川がコトのあとまで意識を保っていたのは今回がはじめてだ。取り立てて乱暴にされているわけではないが、とにもかくにも一般的ではない東元の巨きさのせいで、一度始めたが最後、前後不覚のまま気をやってしまうのがいつものパターンである。
多岐川としては、べつにそれでもかまわない。多少男の矜持が傷つけられている気もするが、受け身に甘んじている時点で今更だ。
だが、いつも一人で取り残される東元のほうはさみしかったらしい。「今日は丁寧にする」と宣言し、実際そのとおりにされた。おかげで、初めて二人の「事後」というやつを体験している。
「透……」
薄明かりの中、相手の瞳に映る自分がはっきり見えるほど間近から顔を覗き込み、東元が唇を寄せてきた。思わずブッと噴き出してしまう。
「なに雰囲気出してんだ」
笑いながら、キスしようとする東元の口許を手でふさぎ、押し返した。
「とおる?」
多岐川の手に口を覆われたまま、東元は不満そうにもごもごと文句を言っている。多岐川は色気のない笑いを浮かべたまま、ぐいっと東元のからだを押しやった。
「いいかげん、おれの上からどけ。重い」
「……意識がないよりひどいな」
恨み言に、「うるさい」と一睨み。ぷいっと顔をそむけたが、なにしろ至近距離だ。顔が赤いのはばれているかもしれない。ちっと鋭く舌を打った。
(くっそ、なんだこれ。勘弁しろ)
恥ずかしい。とにかく気恥ずかしい。いつものように一度意識が途切れると、気分も多少リセットされていたのだが、意識があるばかりに思いがけず盛大な賢者タイムがやってきてしまった。
髪から足までありとあらゆる体液でぐっちゃぐちゃ、正面から抱きつかれて密着した肌はどこもかしこもいやらしくぬめるし、甘えるように擦りつけられる下肢からはあられもない水音が聞こえてくる。しかも、重い。硬い。やわらかくない。さっきまで男の象徴を突っ込まれていたのに今更すぎるが、改めて「男だな」と思う。多岐川を押し潰さんばかりにのしかかり、ぎゅうぎゅう抱き締めてきている相手は十二年来の腐れ縁の友人だという、この事実!
「……ホント何やってんだろうな、俺たち……」
「透?」
名前を呼ぶ東元の声色が変わった。ちょっと怒っている。まあ、無理もない。女だったら引っぱたかれているところだ。
「どうした。よくなかったか?」
「いや、よかったけど」
ことさら丁寧に、じれったいほどやさしくされるセックスは、いつも以上に多岐川の羞恥と興奮を煽った。
そもそも情熱と体力にあかしてがっつくような年ではない。にもかかわらず、じわじわと高められる情欲におぼれ、「早く」と急かしたのも多岐川なら、「奥まで来いよ」とねだったのも、「動いて」と泣いたのも、最終的に自分から腰を振ってあんあん喘いだのも多岐川である。
思い返すにつけ、よけいに賢者モードがひどくなり、多岐川は頭を抱えた。
(なんか、思ってた以上にみっともねぇな、おれ!?)
「後悔してるのか?」
東元の声がいっそう低くなる。ひやりとするような口調に身を案じた多岐川は、なだめるように彼の背を叩いた。「ねぇよ」と答える。
「けど、十二年も友達やってた相手に何やってんだろうって、我にかえる瞬間ってないか?」
「ないな」
東元はあっさりと否定した。
「むしろ、十二年も何もなくても一緒にいられるほどだったんだ。友情から地続きに、こういうことをしたいと思うようになっても不思議はないと思う」
「あー……、そうか」
そういえばそうだった。東元のほうは、ほぼ最初から多岐川が恋愛対象に入っていたのだ。なら、今多岐川が抱いてるような気恥ずかしさというか、いたたまれなさのようなものは、なくて当然かもしれない。
(けど……)
それはそれでさみしいような気分になるのは、勝手すぎるだろうか。
「……なあ。おまえ、おれのこと、友達だと思ってた?」
つい感傷的な気分になり、そうきいた。彼はけげんそうな表情になった。
「今でも思ってるぞ?」
「あ、そう?」
「恋人になったからといって、友人をやめなくてはいけないわけじゃないだろ」
「それは、まあ」
「恋人の透はかわいくて抱きたくなるし、友人の透を抱くのは興奮する」
サディスティックな顔を覗かせて、東元は色っぽく笑った。
「透はどうなんだ? 本当に後悔はしていないか?」
もう一度きかれる。「してないって」と即答した。
「けど、する気にならないから、すげぇなとは思ってるぜ。若干」
「すごい?」
「友達のおまえとこういうことしたいってすごくないか? おれ、今でも自分でびっくりするんだけど。小山とかとエッチしたいとか、絶対思わねぇもん」
多岐川がそう言うと、東元は一瞬おし黙った。かと思うと、ひどくしあわせそうに口角を上げ、にっこりと笑う。
「……つまり、それだけ俺に惚れてるということだな?」
向き合った彼が腰を揺すると、ごりっと下肢に硬いものが触れる。
ん? と多岐川は首をかしげ、すぐにそれが何か、思い至った。
「おまっ……、あっ、ちょっ、何して……っ!?」
「そこまで言われたら、期待に応じないわけにはいかないだろ」
「違う! ちがう……って、あっ、クソ、待てって……っ」
多岐川の腰をがっちり抱え直した東元が、腰を深く沈めてくる。
自分のうかつさを脳内で詰りながら、多岐川は今度こそ正気を失う快感に巻き込まれていった。

クリスマスには素敵なダンスを ――『王様お手をどうぞ』SS

2015-12-26
生まれてこのかた二十年、江神暁範は宗教というものを身近に感じたことがなかった。元大名家の江神家には、東京と国元であった地方、二つの菩提寺があり、それぞれにつきあいも深い。が、江神自身はとくに寺や仏教に思い入れがあるわけでもなかった。いずれ死んだらあの寺の世話になるのだろうという程度だ。そのあたりの感覚は、寺とつきあいのある一般家庭と変わらないだろうと自分では思っている。
そんなわけで、恋人の言葉は青天の霹靂とでも言うべき衝撃だった。
「ごめん、クリスマスは二十四日も二十五日も教会に行くんだ」
江神の大切な恋人は、フランス人ハーフのキリスト教徒だった。


「ホントごめん。そういえば、日本のクリスマスってそういうイベントだったね」
杏里が困ったように頭を掻いている。江神は極力感情を面に出さぬよう、ポーカーフェイスを装った。逆に言えば、意識しなければポーカーフェイスでいられないくらい動揺していたということだ。
まず頭に浮かんだのは、「キリスト教では同性愛は禁忌ではないのか」という疑問だった。ついたずねそうになったが、すんでのところで踏みとどまる。教義上はどうあれ、杏里が自らの意思で江神の恋人になったのは事実だ。彼の中ではきちんと折り合いが付いているのだろう。ならば、よく知りもしない江神が口を出すことではない。
次に浮かんだのは落胆だった。どうやら自分で思っていた以上に、人生初の、「恋人と過ごすクリスマス」を心待ちにしていたらしい。だが、幼稚な期待と勝手な失望で、杏里を煩わせるのは本望ではなかった。信仰をもつ人々にとって、それが個人のアイデンティティに深く根ざしたものであることは、知識の上では理解している。大人としてどうふるまうべきかなど、考えなくてもわかることだった。
「それなら、二十三日は?」
「ごめん、うちの教室のダンスパーティーがある」
「……その前の日曜は」
「その日は教会で子どもたちのクリスマスページェントの手伝いが……」
思わず黙り込むと、杏里は「ごめん」と申し訳なさそうに目を伏せた。
「かまわない。クリスマスでなくても、いつでも会える」
これだけ予定をきいておきながら、我ながらしらじらしいことこの上ない。きっと杏里にも、強がりにしか聞こえないだろう。だが、それ以外にどう言えばよかったというのだ。
案の定、杏里は江神の目をじっと覗き込んできた。宝石のようにきらめく双眸は魅力的だが、実はやっかいなことも知っている。杏里は人の感情の機微を読み取ることに長けている。絵本の王子様のような外見やほがらかな笑顔、闊達な物言い、やわらかな物腰などから、一見駆け引きをしない性格のように見えるが、その実、場の空気やその場の人間関係などを驚くほどよく観察し、ふるまい方を適確に判断している。
江神のほうはというと、杏里とつきあうようになってから、感情的になることが増えた。面に出すかどうかは別として、こと杏里に関わるとなると、大きく感情が揺さぶられる。もはや地顔になってしまっているポーカーフェイスも、杏里相手にはてんで役に立っていない気がした。どうにも素直になれない性分はよくよく自覚しているので、このくらいでちょうどいいのかもしれないとも思うが、杏里にはそんな卑小な考えさえ、見抜かれているのではないかと感じることがあった。たとえ気付いていたとしても、聡い恋人はそんなことはおくびにも出さないだろうが。
江神の目からどんな感情を読み取ったのか、杏里はもう一度「ごめん」と口にした。
「代わりにっていうわけじゃないけど、もし時間があるようなら、二十三日の昼から教室のダンスパーティーに来ない? って言っても、おれはホストだからずっと一緒にはいられないし、パーティーもごく庶民のお楽しみ会みたいなもんなんだけどさ」
「……しかし、俺は部外者だろう」
「大丈夫。きみ、一応、大学の社交ダンス部では、おれたちの教え子だから」
パチリとウィンクをひとつ。杏里は企みを思いついた子どもみたいな顔で笑った。
「パーティーは午後五時でお開きなんだ。そのあと、二十四日の朝まで日本式のクリスマスを教えてくれよ」


パーティー当日、江神は私用で一時間ほど遅れて行った。杏里たちの教室を訪れるのはこれが初めてだ。広々とした板張りのスタジオには、大きなクリスマスツリーが一本。天井や壁も華やかに飾り付けられている。スタジオの一方の端、四分の一ほどにはテーブルが置かれ、ケータリングや生徒の持ち寄りとおぼしき食事が立食形式でふるまわれていた。参加者は老若男女合わせて四十人くらいだろう。生徒たちは思い思いの服装で踊り、食べものや飲みものを手に談笑している。洋画などで見かける、「ホームパーティー」の光景だった。
さて、受付は……と視線を巡らせたところで、
「江神!」
ダンスフロアになっているほうから、杏里が人のあいだを抜けてきた。だが、少々ようすがおかしい。普通なら「いらっしゃい」、「お招きありがとう」といったやりとりがあるはずだが、杏里は目の前まで来るなり、「なんだよ、あのシャンパンの山!」と叫んだ。頬も眸も上気しているが、今まで踊っていたせいだけではなさそうだ。先に届けさせたことを怒っているのか、それとも、シャンパンだけでは足りなかったか。一応、子ども用には葡萄ジュースも届けさせたはずなのだが。
とりあえず、先に思いついた理由について釈明した。
「持ち寄りパーティーとのことだったが、遅刻するので届けさせた、何か不手際があっただろうか」
「いや、ないけど。そういうことじゃなくてね」
「ワインやビールのほうがよかったか?」
「そうじゃなくて……」
何事か続けようとし、杏里は思い直したように言葉を切り、苦笑した。
「ごめん、おれが言い忘れてた。持ち寄りって言っても手作りOK、買う場合は五百円までなんだ。きみのはそれどころじゃないだろ? 後で払うよ」
(なるほど)
どうやら自分は意図せず、ホストの面子を潰してしまったらしい。ゆゆしき事態だ。とっさに貼り付けたポーカーフェイスの下で、江神はひそかに動揺した。
社交における相手の立て方は身に着けており、「江神」の家に関わることではまず失敗しないが、自分のやり方が「世間一般」の枠からやや外れている自覚はある。杏里たちのやり方に合わせられなかったのだと気付いた。
「それは気がつかずに申し訳ない。だが、支払いは無用だ。詫び代わりに受け取ってくれ」
「意味がわか……いや、それじゃ、きみからだけもらい過ぎだって」
「なら、おまえへのクリスマスプレゼントということでどうだ?」
無論、正式なプレゼントはきちんと用意してあるが、ひとつくらい増えても問題ないだろう。
杏里は一瞬ぽかんと惚けたような顔になったが、すぐにプッと噴き出した。
「わかった。ありがたくいただくことにする。びっくりしたけど、届いたときは皆すごく盛り上がったんだ。ありがとう」
そう言ってから、江神の背に腕を回し、「いらっしゃい」とハグをする。頬を寄せ合う、親愛と歓迎のハグ。日本人には馴染みのないそれがあまりにも自然で、彼が育ってきた文化が垣間見える。
それから杏里はフロアを振り返り、音楽の合間に声を張った。
「皆さん、ご紹介します。修学院大学社交ダンス部の江神暁範さん。そこのシャンパンと葡萄ジュースのスポンサーです。拍手!」
わっとスタジオ中から拍手が湧いた。


杏里はこの教室の王子様らしい。
そう悟るまで、長い時間はかからなかった。
「放ったらかしてごめん。楽しんでもらえてる?」
知人の少ない江神に気を遣い、声をかけにきてはくれるが、そうしている間にもひっきりなしに女生から声がかかる。三歳女児から教室最年長とおぼしきご婦人まで、まんべんなく。
「先生、わたしと踊ってください」
今も小学生の女の子が、顔を真っ赤にして頼みにきた。
「もちろんだよ」
目線で「また後で」と江神に告げ、彼女の手を取ってフロアへ出て行く背中を見守る。ホストとしての杏里の役割は理解しているので、江神も視線だけで頷いた。
今まで競技会でのようすはたびたび見てきたが、このスタジオでダンス教師をしている姿を見るのは初めてだ。会場の女性たちに失礼のない程度に、自分もダンスの相手を務めながら、江神は杏里を目で追った。
「一曲踊ってくださる?」
声をかけられ、振り返ると、璃々が立っていた。杏里に気を取られすぎて、つい壁の染みになっていたらしい。
彼女の手を取り、フロアに出ると、向こうで年配のご婦人の手を取った杏里が目を瞬かせてこちらを見た。だが、その視線も、相手の女性に話しかけられ、すぐに逸れていってしまう。
「そんなに怖い顔をしないで。さっきから、江神さんと踊りたい女性が誘えなくてそわそわしてるんです」
音楽に合わせてステップを踏みながら璃々が囁いた。そんなに睨んでいただろうか。今日は失敗ばかりだ。「失礼」と返す。璃々は少し苦笑したようだった。
「教室のパーティーでは、杏里は女性全員と踊るって決まりごとみたいなものなんです。今日はとくに女性の生徒さんへのクリスマスプレゼントみたいなものだから……。わたしは、きっと退屈させてしまうから、デートだけにしたらって言ったんですよ。でも、きっとあなたのことを自慢したかったんだと思います」
そう言って、璃々はひそかに耳打ちした。
「ねえ。杏里を驚かせたくはないですか?」
「驚かせる?」
「そう」
くすくすと悪戯っぽく笑って、璃々がそっと計画を打ち明ける。その内容に驚いたが、最終的には頷いた。他人と踊る杏里ばかり見せつけられて、いい加減、ここにいる人々に杏里は誰のものか知らしめたい欲求に勝てなかったのだ。
「じゃあ、そういうことで」
曲が終わり、璃々は共犯者の笑みで去っていく。
一時間もたたないうちに、その時はやってきた。
「皆さん、次の曲で最後になります。ラストダンスの相手をお選びください」
マリーの声で、フロアがざわめく。江神は迷わず、杏里の前に立った。
「お相手いただけませんか」
そう言って、手を差し出す。杏里は目を丸くして、「ちょっと……」と顔をしかめた。パーティーでの、男性同士のダンスはマナー違反だ。会場の女性に魅力がないという意味にとられかねない。けれども、今日は教室主宰の気軽なパーティー。会場の大人たちはシャンパンとダンスでほろ酔いになり、子どもたちは飽き気味だ。杏里は女性たちと一通り踊り終え、ラストダンスは璃々と踊るのが慣例だと聞いた。その璃々が、飲食スペースでグラスを手にほほ笑む。
「シャンパンが美味しすぎて酔っ払っちゃったの。踊れそうにないんだけど、誰かとだけ二回踊るのも不公平でしょ。江神さんと踊ったら?」
「璃々ちゃん」
二人の企みに気付いたのだろう。杏里は、困ったような、照れたような、少しだけ責めるような目で二人を交互に見たが、最期には苦笑して江神の手を取った。周囲の大人たちがくすくすと笑う。場の雰囲気をこわさずにすんだようでホッとした。
ゆったりとしたワルツが始まる。杏里の手を取り、ステップを踏み出す。女性のステップを踏みながら、杏里が囁いた。
「ごめん。結局、ほとんど相手できなくて……」
「いや、またおまえの新しい一面を知ることができた」
周りで教え子たちが踊っている状況を気にしたのか、杏里が少し咎めるような視線を寄越した。けれどもそれもすぐに苦笑に溶ける。
「初めてのクリスマスなのに、ごめん」
「いや、おれも年末年始は自由にならないからな」
杏里たちが家庭と教会でクリスマスを過ごすように、江神も年始には家での行事に出席しなくてはならない。世間一般のカップルとは少し違うかもしれないが、男同士でつきあっていて、そんなことは今更だ。こんなふうに、互いの家庭の文化を知ることもまた、杏里が言うところの「ステディな『おつきあい』の醍醐味」だろう。もちろん、恋人として満たされていることが大前提だが。
クリスマス前の夕暮れどき、外は冷たいしぐれ雨だ。一面の大きなガラス窓に、灯りだした街のあかりが滲んでいる。
「ダンスのあとは、おれの自由にしていいんだろう?」
耳元で囁くと、ストロベリーブロンドから覗く耳朶が赤く染まった。