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てのひらにひとつ

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終の棲家 ――『てのひらにひとつ』SS

2018-04-19
夏、山里の夕暮れは森の奥からやってくる。木の葉の裏、岩の陰、冷たい清水の流れのふち……ひっそりと宿った夜の気配に呼ばれ、ひぐらしの輪唱が里を覆う。
庭に干していた洗濯物を取り込みながら、西の空を仰いだ。一日かっかと燃えていた太陽は黒ずみ、熾火を残した炭のようだ。一緒に暮らす恋人は一時間ほど前に呼ばれて出て行ったきり、戻ってこない。
山間の開けた谷に数十世帯、肩を寄せ合うように暮らす小さな集落。一つの名字を共有し、互いに下の名前で呼び合う住人たちは、僕らにとっても家族のようなものだ。村でただ一人の医者は、二十四時間いつだって、呼ばれればどこへでも駆けつける。今日も本来は休診のはずなのだが、彼も、彼の患者たちも、僕も気にとめてはいなかった。「休診」は、単に「家まで連絡してください」くらいの符号に過ぎない。
最後に布団を取り込み、縁側で一息ついた。濃い緑の風が家の前に広がる田んぼの稲をさぁっと揺らして駆けていく。熱っぽい土の匂いと、青々と濃い草木の匂い。雪国らしく深い庇は、夏の日差しもよく遮ってくれる。
そのまま縁側で洗濯物をたたんだ。集会所のスピーカーから流れてくる「遠き山に日は落ちて」が、午後五時を知らせている。
あまりにものどかな光景に、あくびをひとつ。眠気を誘われ、広縁から畳に頭だけ載せて横になった。ひんやりした床板が心地いい。
気づくと誰かが僕の頭を撫でていた。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。やさしい指はこめかみの上あたり、さわさわと髪を梳いている。指先から注がれる愛情にほほ笑みたくなるような、胸の奥が苦しくなるような……こんなふうに自分に触れるひとを、僕は一人しか知らない。
「おかえりなさい」
その手の甲に口づける。うっすらと目を開けると、すぐ隣に腰を下ろしていた拓道さんが、目尻の皺を深めてほほ笑んだ。
「ただいま。起こしてごめん」
「いえ……、キヨさん、大丈夫でしたか」
まだ半分まどろみの中から尋ねる。もう少しこの心地よさを味わっていたい。僕の望みを読み取ったように、彼の手は僕を甘やかす。
「いつもの腰痛だよ。しばらく畑仕事はお休みだ」
「もうすぐスイカができるから、お孫さんに食べさせるんだって張り切ってたのに……」
「八十歳だからね。気持ちは若いけど、体がついてこないのかもしれないね」
いたずらに髪をかき混ぜていた指が、いつしか何かを探す動きに変わった。指先が地肌に触れてくすぐったい。
しばらくして、
「抜いていい?」
子どものような真剣さで尋ねられた。笑いをこらえ、
「いいですよ」
ぷちっと髪の抜ける感覚。それからまた飽きもせず髪を混ぜる。
彼は僕の白髪を抜くのが好きだ。僕の髪に白いものが混じるようになってから、気づくとしょっちゅうこうしている。
彼の膝に額をこすりつけ、
「拓道さん、これ好きですね」
そう言ったら、「思う存分きみに触っていられるからね」と返された。どんな顔をしていいのかわからなくなる。年甲斐もなく、他愛もない。
知り合って二十年、人生のちょうど半分を彼と過ごした。出会った頃にはまだ子どもだった僕の頭にはそろそろ白髪が混じりはじめ、拓道さんは白髪のほうが多くなった。抜け毛が少ないのが救いだと彼は笑う。仮に彼の髪の毛がすっかりなくなってしまったところで僕にとっては大きな問題ではないけれど、同じ男として、そう主張したくなる気持ちはわからなくもない。
遠距離恋愛を二年、大学卒業と同時に彼のもとへ引っ越した。無数の小さなすれ違いと、小さくはない喧嘩を数回。それでも思い返せば常に二人、一緒だった。家族に二人の仲を告げたときも、僕が会計士資格を取ったときも、彼がようやく医師免許を手にしたときも、最初に二人で住んだ町で心ない中傷に悩んだときも……。
拓道さんのお祖父さんの家があったこの集落へ越してきたのは一年前だ。転居と同時に僕は「日下部」の籍に入った。人生もそろそろ折り返し。いつしか将来ではなく、残りの時間をどう過ごすかを考えるようになっていた。一回り年上の彼は、もっと早くにそういう心境だったのだろう。つきあって二十年、彼が泣くところを見たのは、後にも先にも、僕が籍を入れたいと申し出たあの日だけだ。
医師としてここへ越してくるにあたり、拓道さんは最初にカミングアウトした。
「私たちは戸籍上は親子ですが、実際には人生のパートナーです。それをあらかじめご承知おきいただきたい」
堂々とした彼の宣言に、村長を初め村の老人たちは唖然としていた。だが、そのおかげか、この村での生活は平穏だ。以前は日常茶飯事だった見合い話をもちかけられることもない。
宵闇が東の山を越えてやってくる。ひんやりとした甘い水と土の匂い。夏虫とカエルの声。
「そうだ、キヨさんに笹竹をもらったよ」
「また現物払いですか?」
「今日は仕事じゃないからね」
彼の穏やかな笑みが好きだと思う。出会った頃と変わらない、信念があってやさしい――。
「拓道さん」
あの頃の僕は、一瞬も立ち止まっていられないほど懸命に恋をしていた。今も、やはりあなたが好きだと思う。変わったようでいて、たしかに一続きの、二人の時間。
「幸せです」
「私もですよ」
静かに、ていねいに、生きていこうと思う。
最後のときまで、二人、寄り添って。
この終の棲家で。



(初出:『小説Dear+』2013年ナツ号・出版社より掲載許可済み)
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きみとの日々に、ピアノを ――『てのひらにひとつ』SS

2015-04-06
ピアノを買おう。
きみとの新しいはじまりの記念に。

その貼り紙は、まだ馴染みの薄い通勤路の道端、民家の塀に貼られていた。
「ピアノ譲ります」
枯れた達筆が目に飛び込んできて、つい帰宅の足を止めた。
当直から翌日午前の外来まで、連続二十八時間の勤務明けだ。白衣を脱ぐまでは睡魔も疲れも忘れていられるが、正直四十を過ぎた体は限界、今すぐここで寝てしまいたいくらいだった。
しかし、待て。ブラックアウトにはまだ早い。
貼り紙の文字に目を凝らす。紙はちょうど満開の桜の下に貼られていて、散り初めの薄紅色がはらはらと視界を舞った。
東洋ピアノ製フリッツクーラー(アップライト)。約四十年前のもの。お値段は「応相談」とある。
ふむ、と無意識に顎下を撫でた。
(聞いたことのないメーカーだな)
とはいっても、私が知っているピアノメーカーなど、ヤマハとカワイ、スタインウェイくらいのものなのだが。そもそも四十年前のピアノというのは、今でも支障なく弾けるものなのだろうか。
一週間前、同居を始めたばかりの恋人――いや、もう「家族」と呼ぶほうがふさわしいだろう。家族の顔が脳裡に浮かんだ。和音くんならわかるかもしれない。きいてみればいいのだが、少々思うところがあってためらう。
貼り紙の前で立ち止まること数分。ふむ、ともう一声。心を決めた。横の門柱の呼び鈴を押す。
「ごめんください。表の貼り紙のことで、お話をうかがいたいのですが……」
はーい、と、家の奥から、母親くらいの女性の声がした。

その日、私は柄にもなく浮かれていた。向かい合って朝食をとっていた和音くんが、「何かいいことがあったんですか?」とたずねたくらいだ。
「そうだね、これからある予定なんだ」
「これからですか?」
「きみが帰ったら話します」
ふふっと口の端から笑いが漏れて、これは確かに浮かれているなと気がついた。締まらないが、たまには勘弁してもらおう。
不思議そうな顔をしながらも、「じゃあ、楽しみにしてますね」と言い置いて、彼は仕事に出て行った。彼はこの春から、市役所の監査事務局に任期付職員として勤めている。
一方の私は、新しい職場に移ってから二度目の休みだ。和音くんを見送ってから、窓を開け、家中の掃除をした。とくに応接室は丁寧に、普段はしない水拭きまでして磨き上げる。
出会って十年、私が僻地医療拠点病院に移るのを期に、ようやく一緒に暮らせることになった。私たちの新居は築二十余年の借家だ。一階にリビングダイニングキッチンと応接室、二階に洋室が一室と和室が二室。南側に小さな和風の庭があって、一日中明るいのがいい。でも、越してきたばかりの家は、まだ少し他人顔だ。
昼前にインターネットの通信販売で頼んでおいた補強用のパネルが届き、昼過ぎには待ちかねたピアノが届いた。
つやつやと光るマホガニーの木目はうつくしく、猫足にデザインされた二本の柱は優雅なカーブを描いている。運んできた運送業者が、養生を解きながら、「いいピアノですね」と褒めてくれた。
ピアノ専門の運送業者がいることを、私は今回初めて知った。クリーニングや調律という作業をする専門業者がいることも。
すべてこのピアノの元の持ち主が手配してくれたのだった。

ピアノの元の持ち主は、七十代の夫婦だった。
娘のために買ったピアノを、娘の結婚後もずっと大切にしていたが、娘夫婦がマンションを購入したのをきっかけに、手放そうと決めたという。都会の狭いマンションでは、アップライトのピアノは大きすぎ、音も迷惑になるからだそうだ。
「あなたは趣味で弾かれるの?」
ご婦人にたずねられ、私は、「いえ」と正直に答えた。
「弾くのは私ではなくて、こ、……家族です」
「あら、じゃあ娘さん?」
悪気のない、この年代の女性にはありがちな好奇心だった。ほほ笑んで、「いいえ」と答えた。
「実は、長くつきあってきた人と、今度一緒に住むことになったんです」
奥さんなのねと言われそうな気がして付け足した。「籍は入れていないんですが」。
「同棲……いえ、事実婚というやつね」
さらりと受け入れられ、ちょっと驚いた。そうか。なるほど、そう言えばいいのか。
実は転勤早々、医局長はじめ周囲から恋人の存在や結婚観について、根掘り葉掘りきかれ続けて困っている。次からはそう言おう。光明を差し出してくれたご婦人に笑みを深くして頷く。
「そうですね。そう言うのが一番ぴったりくる気がします。……その、同居の記念に指輪を贈ろうかと思ったんですが、相手がそういった装飾品には興味がなさそうで……」
話しながら、和音くんの顔を思い浮かべた。
和音くんのやさしく真面目で控え目な性格は、三十歳になった今も変わらない。ただひとつ、何事にも手を伸ばす前に諦めがちだった点だけは、私との仲を御家族に打ち明け、社会人として独り立ちし、公認会計士になり……年齢と社会経験を重ねるに連れ、自然と変わってきたけれど、それでも物欲とは無縁の性格だ。指輪についても、それとなくほのめかしてみたところ、遠回しに断られてしまった。昨年やっと研修医期間を終えたばかりの私に遠慮している部分も大きいのだろうが。
「ただ、ピアノが好きな人なので、喜んでもらえたら、と」
「あらまあ。では、結婚指輪の代わりなの!」
ご婦人の表情が輝いたように見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
とにかく、ご婦人のはからいで、私はこのピアノを破格の値段で譲り受けることになったのだった。
中古ピアノの相場など、これまで気にしたこともなかったが、研修医に毛が生えた程度の貧乏勤務医が即決できる値段など微々たる額だ。後で気になって調べてみて、包んだ額が少なすぎることを知った。すぐさま連絡を取り、せめてもう幾許かお支払いしたいと申し出た。だが、彼女はそれを断り、代わりに長年世話になってきた楽器店でのクリーニングと調律を勧めてくれた。
「今度はあなたが、あなたの大切な人と、このピアノを大事にしていってくださったらうれしいわ」
――そんないきさつで、このピアノは新品同様のうつくしさで、私たちの家の応接室に鎮座することになったのだった。
運び込みとともに一度調律はしてもらったが、楽器が部屋に馴染んだ頃に、もう一度来てもらう手はずになっている。部屋の温度や湿度といった微妙な変化で、音色も変わってしまうのだそうだ。楽器は奥が深い。
一番に弾くのは和音くんと決めていたが、どうしても気になって、そっと蓋を開けてみた。臙脂色のカバーを外すと、白と黒の端正な鍵盤が現れる。とても四十年前のものとは思えない。
少し離れて、応接室の壁際に収まったピアノを眺めた。不思議な感慨が胸に押し寄せる。
和音くんと出会った十年前、私はいろんな意味で行き詰まりを感じていた。仕事を辞めて医師になりたいという希望を通した結果、恋人には見捨てられ、父親からは勘当同然の扱いを受けた。だが、受験勉強は、仕事に時間を圧迫されて思うにまかせず、成績も上がらない。無理かもしれない。心のどこかでそんなことばがちらつきかけていた。
そんな窮地で和音くんと出会い、恋をした。彼との出会いが私を再び奮い立たせ、医師の道へと導いた。遠距離恋愛を乗り越えた恋は十年続き、今、「家族」として一緒に暮らすまでになっている。
潔癖なほど真っ白だった彼を相手に、不実をはたらいたことは誓ってない。けれども一方で、十年、二十年先の未来を誓うことにはためらいがあった。
もちろん気持ちはずっとそのつもりでいた。だが、気持ちは言葉やかたちにしたとたん、束縛にもなってしまう。まだ社会をよく知らない、年若い彼にとっての十年は、既に三十を過ぎていた私にとってのそれとはまったく意味が異なるだろう。未来ある若者を縛り付けたくない。年長者ゆえの配慮と臆病に屈し続けてきた。
けれど、十年。和音くんは、出会った頃の私の年齢に近づき、私は人生の折り返しを過ぎた。そのあいだ、彼の愛は変わることなく私に寄り添い続けてくれた。
「そろそろ、いいんじゃないかと思うんだ」
ピアノに向かって話しかける。
「さすがにもう、彼は私の一生の伴侶だと言っても許されるだろう?」
これからの十年は、おそらく今までの十年以上に障害や困難が立ちふさがるだろう。親は老い、彼も私も「結婚」の呪縛に対する言い訳を失っていく。彼の御家族に対してだけではない、周囲にも曖昧にしておけなくなるときがきっとくる。そのとき、「彼は私の一生の伴侶です」と胸を張って言いたい。
四十余年、鳴り続けてきたピアノ。きちんと手入れをし続けていれば、あと同じくらいは充分に鳴り続けるのだそうだ。あと四十余年。おそらく私の寿命が尽きる頃。私たちの「一生」に寄り添ってくれる証人として、私はこのピアノを求めたのだった。

「帰りました」
午後六時半。いつもより気持ち早めに、和音くんが帰ってきた。
「お疲れさま」
玄関まで迎えに出て、鞄を受け取る。と、靴を脱いだ彼は足元から視線を上げ、開口一番にたずねた。
「それで、いいことは起こったんですか?」
一日気になっていて、と笑う。きっとそれを確かめるために、急いで帰ってきたに違いない。
容貌は成長から成熟の域に達し、スーツの似合う一人前の男性になったけれど、こういうときの表情は出会った頃のままだ。愛おしい気持ちが胸に渦巻く。それを視線に込めて頷いた。
「うん。今起こっているところだね」
「今……?」
不思議そうな彼に、「目を閉じて」と囁く。
「こうですか?」
疑いもせずに目蓋を下ろす彼がかわいい。思わず軽いキスを落とすと、目を開けた彼が、「拓道さん」と声音で抗議を表した。
「ごめん。きみがあんまりかわいくて」
「もう、バカにしないでください」
「ごめん。もう一度やり直させて」
再び目を閉じた彼の手を引き、応接室まで連れて行く。
「もういいよ。目を開けて」
素直に従った彼は、そのまましばらく声を失った。
やがて一歩、ピアノに近づき、
「……これ、どうしたんですか……?」
呆然と私を振り返る。
彼の目を、正面からとらえた。
「指輪の代わりです。私たちの新しいはじまりの記念と、きみへの気持ちの証に」
「……」
彼はまだ呆然と、信じられないような表情で、私とピアノを見比べた。
もう一歩、ピアノに近づき、おそるおそる鍵盤に触れる。
ぽーんと、ふくよかな丸い音が空から降ってきたように響き、余韻を残して消えていった。楽器に詳しくない私にすらわかる、伸びやかな音だった。
「受け取ってもらえますか?」
振り返った彼の頬を、涙がほろりと転がり落ちる。笑って頷いてくれる彼は、今まで見てきたどの表情よりきれいだと思った。
「ありがとうございます。僕も何か、考えますね」
「だったら、これから休みの日には、これで何か弾いて聴かせてください」
考えるより先に出てきたことばに、彼はちょっと目を見開いた。
「……大変だ、練習しなくちゃ。もう十五年、まともに弾いてません」
深刻な顔で言うから、笑ってしまった。
「大丈夫。時間はたっぷりありますよ。たぶん、あと四十年くらいは」
彼ははっと私の顔を見た。意図は正しく伝わったのだろう。ほほ笑むと、彼はほろりと涙をもう一粒流した。
「……そうですね。時間は、たくさんあるんでした」
うつくしい涙と笑顔に、もう先ほどのことばを撤回したくなる。
四十年では飽き足らない。
祈らずにはいられなかった。
私たちの「一生」を見守るこのピアノと、できるだけ長く、共に人生を歩めるように。
私たちの「一生」を彩るやさしい時間とうつくしい音が、できるだけたくさん積み重なるように。

きみの味方 ―『てのひらにひとつ』SS

2013-04-01
四人がけのテーブルは、奇妙な緊張感で満ちていた。母と兄と俺。そして、兄の連れてきたお客さん。
兄の横に座ったその人は、かなり年上の、ありていに言ってしまえば「おじさん」だった。個人宅を訪問するにはやけにかしこまったスーツを着ているが、特別格好いいわけでもなく、なんていうか……すごく、普通な感じの人だ。
兄――和音はさきほどからじっとテーブルの一点を見つめている。隣に座った母から困惑の気配が伝わってくる。正直、俺も戸惑っていた。
今日は、和音から「大事な話がある」、「会わせたい人がいる」、「家に連れてくるから」と言われていた。母も俺も、和音がいよいよ恋人を紹介してくれるんだと勝手に思い込んでいた。真面目で奥手な和音に恋人ができたらしいと気づいて一年ちょっと。最近、数日の外泊も増えたし、もしかして結婚するんだろうか。早かったような、長かったような……今結婚するって言い出したら大学出てすぐだよな。早いよな……とにかく、よっぽどのことがなければ祝福するつもりで、楽しみにしていた。
……が、目の前にいるのは、どう見てもただの「おじさん」だ。母が混乱するのも無理はない。
お客さんが、ふっとやわらかくほほ笑んだ。そのときになって初めて、俺は彼がこの場でもっとも自然体でいることに気づいた。家族の中に一人、他人が混ざり、怪訝な視線を向けられて、それでもごく自然にかまえていられるって、実はすごいことじゃないだろうか。よっぽど自分に自信があるか――そうじゃなきゃ、よほど、覚悟を決めているか。
やさしく、あたたかな人柄がにじみ出すような微笑を浮かべ、彼はすっと丁寧に頭を下げた。
「改めまして、日下部拓道です。和音さんと恋人としておつきあいさせていただいています」
――ああ、やっぱり。
俺の感想はそれだけだった。それ以外、浮かんできやしなかった。


和音は三歳年上の俺の兄だ。家族は、母と兄の二人。父親は知らない。俺が小学校に入った頃まで一緒に暮らしていたはずだが、顔もほとんど覚えてない。
俺が知っている限り、母は度を超した仕事人間だった。明るく、はつらつとしていて、俺たちにはやさしかったが、とにかく頭の回転が速く、何かしていないと我慢ならない人らしかった。ないがしろにされていると感じたことはないが、仕事と俺たちを天秤にかけたらどうなるのか、兄も俺も、一度もきいたことはない。きいたら怖い答えが返ってきそうできけなかった。そんな人だ。
母がバリバリ働いてくれたおかげで、母子家庭でも家計はそれほど苦しくはなかった。その証拠に、兄も俺も、母の勧めであれこれ習い事をさせられた。ピアノは、先に兄が習い始め、一年遅れで俺が続いた。たくさんあった習い事の中で、ピアノだけが長続きした。というか、和音も俺も、それしか眼中に残らなかった。
学校から帰って寝るまでの時間を半分こしてピアノを弾いた。上手に弾けるようになるのが単純に嬉しかった。やがて技術とともに表現力を気にするようになり、俺たちの電子ピアノは防音室付きのグランドピアノに変わった。それでも、時間を半分こして弾く習慣は変わらなかった。
だから、中学二年になった和音がピアノをやめると言い出したとき、俺にはその理由がわからなかった。和音も俺もピアノが好きで、大好きで、弾いていられれば幸せで、それはきっと二人とも、一生変わらないのだと当たり前のことのように信じていた。突然の和音の心変わりが俺には理解できず、裏切られたようにも感じた。
それが間違いだったと気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。
高校の受験勉強があるからとピアノから遠ざかっていた和音は、近くの高校に合格した後もピアノに触れようとはしなかった。
時間はできただろう。また弾けばいい。そう俺が勧めても、和音は「おまえの練習があるだろ」と笑い、けっして防音室に入ろうとはしなかった。たしかにその頃には俺は将来ピアニストになりたいと思っていたし、コンクールに出て、それなりの結果を得てもいた。でも、それと和音がピアノが弾かないのは別の話だ。和音はもうピアノにも音楽にも、まったく興味がなくなってしまったんだろうか。
――そんなことを思っていた中学時代の俺を、俺はぶん殴ってやりたい。
いつの頃からか、和音は俺がピアノを弾いていると、防音室と部屋の隙間に入り込むようになった。そこで勉強していることもあれば、小難しい本を読んでいることも、膝を抱えて寝ていることもある。好きな曲を弾いてやると、うれしそうに笑う。俺のピアノの録音データをほしがるようになり、やがてあれこれとリクエストもしてくるようになった。音楽に興味がなくなったわけでも、ピアノが嫌いになったわけでもないらしい。でも、かたくなに防音室に入ろうとはしない。どういうことだ?
その疑問が解けたのは、和音が大学に受かったときだった。お祝いの外食から帰って、和音が風呂に入っていたときだったと思う。母がぽつりと漏らした。
「和音には頭が下がるわ」
「高校も大学も、一発合格だもんな」
「それもだけど、……」
母はめずらしく次のことばに迷っていた。
「なに?」
「……澄音ももう高校生だもんね。知っててもいいかな」
俺の顔を見つめて、母が聞かせてくれた事実は衝撃だった。
「お兄ちゃんね、高校は三年間、授業料免除だったの。そのために一生懸命勉強してたの、澄音も知ってるでしょう。大学も、本当はもっといいところだって行けたけど、入学費免除で奨学金をもらえるところを選んだのよ。四月からのバイトももう決めたって」
「……、それって」
それがどういう意味か、俺はもう、わからない年じゃなかった。……だからこそ、母さんは話してくれたんだと思う、けど。
「和音は、……家のために、そうしたってこと?」
――俺のために、とは、きけなかった。指先が冷たくなる。もしかしたら……いや、たぶん、そうなのだと、俺はもう気づいていた。
「……うち、そんなに、家計苦しかった?」
「……二人を音大に行かせてあげるのは、無理だったかな」
母は情けなさそうに、悔しそうに、眼を伏せて、口元をゆがめた。
「でも、本当は、そこまでしなくても大丈夫なの。たぶん、奨学金を借りてくれたら、普通に大学に通わせてあげることはできたと思う。……でも、お兄ちゃんは、きっと、それじゃだめだったのね」
俺はふらふら立ち上がり、リビングを出て、防音室のピアノの前に座った。蓋を開け、鍵盤に指を走らせる。
兄と俺、二人にと買ってもらったグランドピアノ。時間をはんぶんこして弾いた。どちらが先に弾くかはじゃんけんで決めた。ほとんどけんかをしない、仲のいい兄弟だった。
でも、俺は知ってる。和音がピアノをやめたとき、俺は既に兄の技術を追い越しかけていたこと。表現面ではとっくの昔に追い越していたこと。兄にはない才能が俺にはある。だから、それが悔しくて、和音はピアノをやめたのだと思っていた。競争に勝てないから放り出した。興味がないふりをした。和音がピアノを好きな気持ちは、俺と同じように、もっと純粋なものだと思っていたのに。兄は俺とピアノを捨てた。裏切った。そう、心の底で思っていた。そんな兄を軽蔑するような気持ちすら持っていた。
たぶん、それも、まったくの的外れじゃないんだろう。高校生なりに、大学生なりに、和音ができる限り経済的に自立しようとするのは、ピアノに、音楽の神様に選ばれなかった、兄のプライドなんだと思う。
でも、それは物事のごく一面に過ぎなかった。
和音は、兄は、俺にピアノを譲ってくれたのだ。二人でピアノを弾いていたころ、交替の時刻になっても、どうしてもあと一回弾きたいとごねた俺に、「あと一回」を譲ってくれたみたいに。兄は俺に、ピアノのある人生を譲ってくれたのだ。防音室に入ること自体やめなければ思い切れないほど、本当は、ピアノが好きだったのに。
言ってくれたらよかった。なんで相談してくれなかったんだ。いろんな感情が迫り上がり、喉元まで出かかった。
だけど、そういうことばを、俺は口にしなかった。
残酷な言い方だが、兄に才能がなかったのは事実だ。そして、俺はピアノから離れることはできない。そういう、動かしようのない事実を横に置いて、申し訳ないとか、かわいそうだとか、感情にまかせたことばを、兄が望んでいるとも思えなかった。
その代わり、和音がいつかわがままを言うときが来たら、そのときは何が何でも和音の味方でいてやろうって決めた。世界中が「違う」って言っても、「その通りだ」って肯定してやろう。世界中が敵になることがあるとしても、俺だけは和音の味方でいてやるのだ。


だから、思った。「ああ、今だ」って。
しん、と沈黙の落ちたダイニングテーブルの向こう、和音はテーブルの一点を見つめて微動だにしない。
真剣な顔の日下部さんと目が合った。見た目はほんと、普通のおじさんだ。でも、見るからに誠実そうだった。なんか、妙に納得する。……うん。こういう人を選ぶって、すげぇ、和音らしい。まさか男で、こんな年上とは思わなかったけど。
いいよ。和音が選んだのがこの人ならいいよ。俺は和音の味方だ。この人といることが和音のしあわせなんだったら、俺は和音とこの人の味方になる。たとえ、世界中が反対しても。
絶句している母を横に、俺は背筋を伸ばした。
ありがとう。和音を選んでくれて。お礼に、あんたの味方にもなってやるよ。
それが伝わるよう、にこっと笑った。
「来てくれてうれしいです。和音の弟の澄音です。俺、ずっと、あなたに会いたかったんですよ」
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