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89番目の駅 ―4―

そんな出会いから、整司は月に数度のペースで白波瀬の家に通うようになった。
最初に泊めてもらった翌日の帰り際、
「また来てもいいですか」
整司がたずねると、白波瀬は「いいよ」と頷いた。
「整司の来たいときにいつでもおいで。でも、来る前に必ず電話してから来るんだよ」
その一言に、整司は少し身構えた。
「僕のことが嫌いだったら……社交辞令なら、そう言ってほしいです」
うつむき気味に言うと、白波瀬はちょっと首をかしげた。
「どうしてそんなことを言うの?」
「前にそう言われたからです」
整司は淡々と語って聞かせた。
大学に入ったばかりの頃、知人から一緒にコンパに行かないかと誘われた。その日は予定が入っていて断らざるをえなかったが、次の機会に誘ってほしいと言うと、相手は「もちろん」と頷いた。
「また声をかけるよ」
でも、三ヶ月が経っても、半年が経っても、彼は整司を誘わなかった。
後期の授業で彼に会ったとき、整司はどうして誘ってくれないのかと彼にたずねた。彼は決まり悪げな表情で言った。
「あんなの社交辞令だろ」
少し意地の悪い、あざけるような笑いとともに――。
黙って聞いていた白波瀬は、全部聞き終えると、慈しむように目を細めた。
「整は正直で誠実なんだね」
「……?」
よくわからない。褒められたんだろうか。
わからないけれど、白波瀬の声にもことばにも視線にも、不快なものは何もなかった。
白波瀬の目には、自分は「正直」で「誠実」に見えているのか。
そう思ったら、気持ちが軽くなり、うれしくてたまらなくなった。これまで自分に与えられる他人の評価といったら、「我が儘」だの「自己中心的」だの「変人」だのが大半だったから。
うれしかったので、「ありがとう」と言った。不思議と白波瀬の顔は見られなかった。
そんな整司に「ちょっと待ってて」と言い残し、白波瀬はタンスの引き出しから何かを取ってきた。
「電話してからおいでと言ったのは、きみが待ちぼうけしたらかわいそうだと思ったからだよ。でも、電話はもういい。代わりにこれをあげよう。わたしが留守だったら、これを使って」
手渡されたのは錆色の鍵。
そうして白波瀬の家の鍵は整司のものになった。
あんまりうれしかったから、整司は鍵にチェーンを通して首から提げた。白波瀬の家に行かない日も、毎日身に着けている。そして好きなときに白波瀬の家を訪れた。
白波瀬の家では、特別何かをするわけでもない。整司はたいてい数式について考える。
潮と古い家の匂い。海鳴りと、ときどき鉄橋を渡っていく列車の音。ミケさんのひそかな息づかい。白波瀬の家では、他の場所よりもほんの少し時間がゆっくり流れている。
整司が頭の中で数式をもてあそんでいるあいだ、白波瀬はそばで仕事をしたり、本を読んだりしていることもあれば、講義に行ったり、ふらりとどこかへ出かけてしまうこともあった。
必要以上にかまわれることはないけれど、受け入れられている。そう感じる。白波瀬のそばにいると、家族といるより、一人で過ごすより、呼吸がしやすいみたいな気がした。
桜が散り、新緑の上をさわやかな風が渡る頃になると、白波瀬は時折整司の勉強を見てくれるようになった。
白波瀬は地方の大学で数学を教えながら何冊もの研究書を出している、素数の分野では著名な数学者だった。大学の指導教官は、整司の言動にどこか引いているふしがあって、研究指導も熱心とはいえない。就職活動をしていないのだから、卒業後は院に進むしかないのだが、彼との相性の悪さから、いまいち積極的になれないでいた。けれども白波瀬と話していると、自分が数学が好きなのだということを実感させられる。
「しろさんといると、好きなものが増えます。しろさんが好きになりました。ミケさんも好きになりました。数学も前より好きになりました」
そう言ったら、白波瀬は完爾と頷いた。
「大学院に進んだらいい。なんならうちの院に来てもかまわないよ。きみが通っているところよりも、大学のレベルは少し下がってしまうけれど」
夏、書き上がった論文を見せると、白波瀬は満足そうに頷き、「これを一部もらってもいい?」とたずねた。
「ぜひ見せたい人がいるんだ」
白波瀬には、整司以外にも数学好きの友達がいるのだ。
羨ましいなと思い、ちょっとだけいやな気分になった。自分には白波瀬だけだ。なのに、白波瀬には自分以外にも親しい人間がいる。それがひどくつまらないことのように感じた。
少しでも白波瀬の気持ちが引けるのなら。彼が喜んでくれるのなら……。ただそれだけの気持ちで論文を渡した。
それがこんな結果になるなんて。
整司は両手で強く顔をこすった。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
「うちの院に来てもいい」なんて言ってくれたのに。
整司はそのつもりで、秋口に白波瀬の勤務先の大学の院試を受けた。合格通知ももらって、すっかりその気になっていたのに、アメリカなんて――どうして?
潮の匂いに包まれた、海鳴りと電車の音の聞こえる家。
八十九番目の駅には、整司が初めて好きになった、大切なひとがいる。
それがどれだけ整司の気持ちを支えてくれているか。どれだけ整司にとって重要なことか。どれだけ整司をとらえているか……。
白波瀬はわかってくれていると思っていたのに。

89番目の駅

89番目の駅 ―4―

2018-10-17
そんな出会いから、整司は月に数度のペースで白波瀬の家に通うようになった。
最初に泊めてもらった翌日の帰り際、
「また来てもいいですか」
整司がたずねると、白波瀬は「いいよ」と頷いた。
「整司の来たいときにいつでもおいで。でも、来る前に必ず電話してから来るんだよ」
その一言に、整司は少し身構えた。
「僕のことが嫌いだったら……社交辞令なら、そう言ってほしいです」
うつむき気味に言うと、白波瀬はちょっと首をかしげた。
「どうしてそんなことを言うの?」
「前にそう言われたからです」
整司は淡々と語って聞かせた。
大学に入ったばかりの頃、知人から一緒にコンパに行かないかと誘われた。その日は予定が入っていて断らざるをえなかったが、次の機会に誘ってほしいと言うと、相手は「もちろん」と頷いた。
「また声をかけるよ」
でも、三ヶ月が経っても、半年が経っても、彼は整司を誘わなかった。
後期の授業で彼に会ったとき、整司はどうして誘ってくれないのかと彼にたずねた。彼は決まり悪げな表情で言った。
「あんなの社交辞令だろ」
少し意地の悪い、あざけるような笑いとともに――。
黙って聞いていた白波瀬は、全部聞き終えると、慈しむように目を細めた。
「整は正直で誠実なんだね」
「……?」
よくわからない。褒められたんだろうか。
わからないけれど、白波瀬の声にもことばにも視線にも、不快なものは何もなかった。
白波瀬の目には、自分は「正直」で「誠実」に見えているのか。
そう思ったら、気持ちが軽くなり、うれしくてたまらなくなった。これまで自分に与えられる他人の評価といったら、「我が儘」だの「自己中心的」だの「変人」だのが大半だったから。
うれしかったので、「ありがとう」と言った。不思議と白波瀬の顔は見られなかった。
そんな整司に「ちょっと待ってて」と言い残し、白波瀬はタンスの引き出しから何かを取ってきた。
「電話してからおいでと言ったのは、きみが待ちぼうけしたらかわいそうだと思ったからだよ。でも、電話はもういい。代わりにこれをあげよう。わたしが留守だったら、これを使って」
手渡されたのは錆色の鍵。
そうして白波瀬の家の鍵は整司のものになった。
あんまりうれしかったから、整司は鍵にチェーンを通して首から提げた。白波瀬の家に行かない日も、毎日身に着けている。そして好きなときに白波瀬の家を訪れた。
白波瀬の家では、特別何かをするわけでもない。整司はたいてい数式について考える。
潮と古い家の匂い。海鳴りと、ときどき鉄橋を渡っていく列車の音。ミケさんのひそかな息づかい。白波瀬の家では、他の場所よりもほんの少し時間がゆっくり流れている。
整司が頭の中で数式をもてあそんでいるあいだ、白波瀬はそばで仕事をしたり、本を読んだりしていることもあれば、講義に行ったり、ふらりとどこかへ出かけてしまうこともあった。
必要以上にかまわれることはないけれど、受け入れられている。そう感じる。白波瀬のそばにいると、家族といるより、一人で過ごすより、呼吸がしやすいみたいな気がした。
桜が散り、新緑の上をさわやかな風が渡る頃になると、白波瀬は時折整司の勉強を見てくれるようになった。
白波瀬は地方の大学で数学を教えながら何冊もの研究書を出している、素数の分野では著名な数学者だった。大学の指導教官は、整司の言動にどこか引いているふしがあって、研究指導も熱心とはいえない。就職活動をしていないのだから、卒業後は院に進むしかないのだが、彼との相性の悪さから、いまいち積極的になれないでいた。けれども白波瀬と話していると、自分が数学が好きなのだということを実感させられる。
「しろさんといると、好きなものが増えます。しろさんが好きになりました。ミケさんも好きになりました。数学も前より好きになりました」
そう言ったら、白波瀬は完爾と頷いた。
「大学院に進んだらいい。なんならうちの院に来てもかまわないよ。きみが通っているところよりも、大学のレベルは少し下がってしまうけれど」
夏、書き上がった論文を見せると、白波瀬は満足そうに頷き、「これを一部もらってもいい?」とたずねた。
「ぜひ見せたい人がいるんだ」
白波瀬には、整司以外にも数学好きの友達がいるのだ。
羨ましいなと思い、ちょっとだけいやな気分になった。自分には白波瀬だけだ。なのに、白波瀬には自分以外にも親しい人間がいる。それがひどくつまらないことのように感じた。
少しでも白波瀬の気持ちが引けるのなら。彼が喜んでくれるのなら……。ただそれだけの気持ちで論文を渡した。
それがこんな結果になるなんて。
整司は両手で強く顔をこすった。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
「うちの院に来てもいい」なんて言ってくれたのに。
整司はそのつもりで、秋口に白波瀬の勤務先の大学の院試を受けた。合格通知ももらって、すっかりその気になっていたのに、アメリカなんて――どうして?
潮の匂いに包まれた、海鳴りと電車の音の聞こえる家。
八十九番目の駅には、整司が初めて好きになった、大切なひとがいる。
それがどれだけ整司の気持ちを支えてくれているか。どれだけ整司にとって重要なことか。どれだけ整司をとらえているか……。
白波瀬はわかってくれていると思っていたのに。

89番目の駅 ―3―

2018-10-10
どこからともなく潮の匂いがただよってくる家だった。
木の建具に、闇夜がゆがんで見えるガラス、色褪せてささくれ立った畳。炬燵には、ほっそりした三毛猫が一匹もぐりこんでいた。
「ねこ」
呟くと、台所から「ミケさんだよ」と返事がある。
すべらかな背に惹かれ、おっかなびっくり触れてみた。猫はぐにゃぐにゃしていてあんまり好きじゃない。でも、冷え切った体にミケさんのぬくもりはやさしくて、ほっとした。
「どうぞ」
台所から戻ってきた白波瀬が、湯飲みに熱い茶を注いでくれる。香ばしい匂いと湯気。台所からは出汁の匂いもする。
「今うどんを作ってる。うどんは嫌いじゃない?」
「はい」
湯飲みを片手にそろそろとミケさんの背中を撫でながら、整司は壁際一面の本棚を見上げた。
フェルマー。オイラー。フィボナッチ。
「しろさんは数学が好きですか」
どんぶりを両手に、台所から戻ってきた白波瀬が、「よくわかったね」と頷いた。
「大学で数学を教えているんだ」
「僕は大学で数学を勉強しています」
「ああ、そうなの? 何年生?」
「三年です」
「二十一か」
「しろさんは」
「いくつに見える?」
「わかりません」
「五十五だよ」
その瞬間、整司の脳裏に閃光がひらめいた。
食べかけのうどんを押しやり、床にあった新聞の束から裏の白いチラシを引っ張り出す。けれど、書くものがない。
「書くもの」
いらいらと言い放つと、白波瀬が目を丸くした。
「え? ……ああ。はい」
渡されたボールペンをひったくり、思いつくままがりがりと書きはじめる。
数字の飛沫。数列の波。どこまでも広がる美しい数式の世界。
思考の海を泳ぎ回るあいだ、整司は時間を忘れた。
やがて我に返ると、炬燵の角を挟んだ隣で、白波瀬が難しい顔をしてチラシの裏を眺めていた。
「……フィボナッチ数列に、素数は無限に存在するか?」
今まで書き散らしていた問題を言い当てられ、驚いた。
「そうです」
「すごいね、いいところまで証明できてると思うよ。どうしてここでやめてしまったの?」
「美しくないからです」
あるところまで書き連ねたら、自分の論理の冗長さが気になりだした。そうなると、もうだめだ。整司の集中力はとたんにぷっつり途切れてしまう。
整司の答えに白波瀬は少しほほ笑んで「そうか、残念だな」と頷いた。
「どこまで言えるか見てみたかったけど、仕方ないね」
たいていは理解してもらえない整司の理屈。でも、白波瀬は整司の気まぐれを責めたりしなかった。
目の前で小さな光がパチパチはじける。新しい数式を見つけたときみたいな眩しい感覚。
整司は思わず炬燵の上に身を乗り出した。
「しろさんは不思議な人です」
「そうかい? そうかな」
「しろさんと僕の年はフィボナッチ数です。しろさんが五十五、僕が二十一。僕は八十九が一番好きですが、五十五も好きです」
「そうか」
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
黄金比につらなる、美しい数列の、美しい数字の関係。
でも、それだけでなく、この人が好きだと整司は思った。
二十一年生きてきて初めて、他人を好きだと思った。

89番目の駅 ―2―

2018-10-03
一年前のその日、一人の青年を拾った。
最終電車で帰ってきた入江谷の駅の反対側ホームに、彼はひとり立ち尽くしていた。肩にも頭にもうっすらと雪を積もらせて。
旅行者だろうか。一時間に一本電車が通ればいいような辺鄙な場所だが、山と山のあいだにかけられた巨大な鉄橋は、一部の鉄道ファンや写真愛好家に人気がある。ただ、日は既に山に落ち、電車ももう今夜は来ないはずだ。そんな駅で彼はいったい何をしているのだろう。
気にかかりながらも、いったんは知らぬふりで駅から集落への道を下りはじめた。けれど、どうしても彼が気になる。結局階段を半分以上引き返し、反対側のホームに向かった。
間近に立ってみると、小柄な青年だった。百九十センチ近くある白波瀬は、同年代では規格外の扱いだが、それを抜きにしても彼は小柄だ。せいぜい白波瀬の顎くらいまでしかない。コートからのぞく指はひどく細く、指先は寒さのためか、桜貝のような薄紅色をしていた。手袋はどうしたのだろう。
「これ以上待っても電車は来ないよ」
白波瀬がそう教えてやると、大きな目でじっとこちらを見つめた。細い顎が神経質な印象だが、清潔な顔立ちをしている。磨いた薄いガラスのような、脆さと緊張感が同居する独特の雰囲気があった。
白波瀬の言葉の意味を考えるような間を一拍置いたあと、彼は真顔で首を横に振った。
「いいえ、次の電車は明朝七時二十八分、白浪行き各駅停車です。白浪で崎山行き急行に十三分で接続します」
微妙にかみ合わない返事と、意固地なほどきっぱりとした口調に内心面食らう。
迷いなく始発を言い当てたので地元の子かとも思った。だが、見覚えはない。背後を山に、目の前を日本海に囲まれた小さな漁村だ。百人にも満たない住人の顔は全員覚えている。
「まさか、それまでここにいるつもり?」
そうたずねると、彼は今度はおぼつかなげに眉を寄せ、うつむいた。青ざめた唇が小さく震えている。
「寒いだろう?」
「寒いです」
「明け方には氷点下まで下がるよ。どこか泊まるところはあるの」
「いいえ」
「そうか。それならうちにおいで」
するりとそう口にしていた。自分でも思いがけないほど簡単に。
青年が驚いた顔でこちらを見上げる。眸の中を逡巡がよぎる。けれど、それも一瞬。
不躾なほどまっすぐな目で白波瀬を見据えて、彼は言った。
「あなたの家に行きます」
きっぱりと生真面目な、けれど、どこか単調な口ぶりで。


駅から谷底の集落へ下りる道を、前後に連なって歩いた。
まともに舗装すらされていない、人一人ぶんの細く急な坂道だ。白波瀬の持つ懐中電灯だけが、ゆらゆらとおぼつかない光の輪を足下に投げている。
背後を振り返ると、彼はうつむき気味に付いてきていた。
「きみはどうしてここに? 鉄橋の写真でも撮りにきたの」
たずねると、一拍置いて、「いいえ」と返ってきた。
「じゃあ、駅で何をしてたんだい?」
「鉄橋を見ていました」
「見る?」
「はい。隅々まで見て覚えます」
「なるほど、そうすれば写真に撮る必要もないってことか」
彼の端的な答えは、白波瀬の心の琴線に触れた。好きなもの、見たいものに対する、彼の静かな熱意と誠実さを感じた。
「鉄道ファンなの?」
「はい」
即答だ。と思ったら、今度はいきなり怒濤のようにしゃべり始めた。
「電車はいいです。時刻表の通りに決まった時間に決まった速度で決まったところを走ります。日本の電車の時刻表に対する平均誤差は在来線で五十秒から六十秒、八十五から八十七%の電車が定刻に発車します。世界一の精度です。規則正しい振動も好きです。電化路線を時速九十から百キロで走っているときのリズムが一番いいです。緻密なダイヤグラムや時刻表は美しいと思います……」
相づちも挟ませない勢いに内心驚いた。だが、返事をするときの独特の間や、この突拍子のないしゃべり方には覚えがある。過去に見てきた教え子たちの顔を脳裡に浮かべ、発達障害の可能性に思い至った。
彼が思う存分しゃべり、一息ついたところで頷く。
「そうか。つまり、きみはすごく鉄道が好きなんだ」
彼はまた一拍黙り込み、噛みしめるように答えた。
「はい。僕は鉄道が好きです」
その声が、口調が、あまりにもしみじみとしあわせそうで、白波瀬は小さくほほ笑んだ。
彼が一人でしゃべっているうちに、二人は駅からの階段を下り、集落の中に踏み込んでいた。住人しか通らない裏道は畑と道の境も曖昧で、道端に金柑の枝が茂っていたり、大根の葉がはみ出してきていたりする。彼の足下を照らしながらゆっくりと歩き、やがて海辺の家に着いた。黒く焼いた杉板を下向きに重ねて壁にした、漁師町独特の漁り屋だ。海に面した一階部分は海水が屋内まで引き入れられていて、父が使っていた小舟が一艘、今も収められている。
「着いたよ。どうぞ」
「しろさん」
突然そう呼びかけられ、再び驚いた。
「それはわたしのことかな?」
彼は少し神経質なしぐさで眉をひそめた。
「『しろ』以外読めません」
「……ああ、そうか」
玄関口に掛けてあった表札のことだろう。「しらはぜ」と教えてやった。
「白波瀬敦夫(あつお)だ。きみは?」
彼は濡らしたガラス玉のような目で白波瀬を見上げた。
「僕は四辻(よつじ)整司です」

89番目の駅 ―1―

2018-09-26
一年前のその日、整司は大学の最寄り駅からふらりと電車に乗った。
一番近い駅までの切符だけ買って、けれど、その駅は当たり前のように通り過ぎた。支払いは降車駅での精算でいい。どこでもいいから、誰も自分を知らないところに行きたかった。
整司をとりまく世界は、いつだって窮屈だ。誰もに同じ枠と物差しを押しつけて、そのくせ「柔軟性」なんてものを都合の良いときだけ要求する。
整司は人付き合いそのものが苦手だが、とりわけ同年代の相手と接することが不得手だった。視線と笑みだけで交わされる不透明な連帯感。難解な暗号のような会話。ただでさえ他人の表情や文脈を読むことが苦手な整司には、彼らとの会話は苦痛でしかない。何かを言えば「空気が読めない」と言われ、黙っていれば「暗い」と言われた。まったくもって意味不明だ。空気は読むものではないし、人間に光度があるわけでもない。だが、そう主張すると、今度は奇異なものを見る目で見られたり、かわいそうな人に接するように過度に親切にされたりした。
鬱陶しい。煩わしい。放っておいてほしい。
整司の感覚では自分は正常だし、かわいそうでもない。自分たちの尺度を押しつけて、勝手に判断しないでほしい。
鬱屈が溜まりにたまって我慢ならなくなると、整司はこうして電車に乗る。
整司の脳内には、日本全国の路線図と時刻表が、整然と整理され、収まっている。その中から気の向いた路線を選び、好きな数字の駅を目指す。それが整司の旅の仕方だ。今日は特別疲れた気分だったから、一番好きな数字を選んだ。
ゆるいカーブの遠心力を体に感じながら、そっと呟く。
「今日はJR日本海線から日本海電鉄白浪線。八十九番目の駅は入江谷。乗り換え四回。到着は十五時四十二分」
それだけで、嫌なことが一つずつ、真っ白に消去されていく感じがした。
窓から外を眺めながら、整司の意識は数字の世界へと飛び立っていく。
各駅ごとに加速と減速と停止を繰り返す電車の規則的なリズム。脳裏に広がる数字の世界。それだけでも十分だけれど、誰も自分を知らないところなら、いっそう自由になれる気がする。
その日は電車に乗ったときから、整司はずっと一つの数列のことを考えていた。大学の講義は時折目新しい材料を整司に与えてくれるけれど、たいていはとても退屈だ。教授たちの話を真面目に聞くよりも、自分の中に広がる数字の世界に遊ぶことを整司は好んだ。
乗り換えを繰り返し、最後に乗り込んだ電車は、たった二両のワンマンカーだった。座席は古びたボックス式シートだ。地方路線特有のこの車両が、整司は好きだった。ベンチ式シートにはないゆとりが、旅行の気分をかきたてる。
いくつめかのトンネルをくぐったとき、目の前に突然海が現れた。
といっても、広々とした海ではない。山と山のあいだに横たわる谷間の入江。荒れた海は、どんよりとした空の色を映して、暗く鈍い色をしていた。
電車がゆるやかに減速を始める。その音が軽いことに気づき、鉄橋の上を走っているのだと気づいた。ずいぶんと長い。
やがて電車が止まったところが今日の目的地、八十九番目の入江谷駅だった。
けっこうな額になった乗り越し料金を運転手に支払い、整司は電車を降りた。こちらのホームと向かいのホームに、庇の付いた木製のベンチと公衆電話のボックスが一つずつ。それ以外は待合室も改札もない、さびれた無人駅だった。
民宿でもなんでもいい、どこか泊まるところがあるだろうか。
あまり期待できなさそうな予感を抱きながら、ホームを歩く。そして端まで来たとき、整司は感嘆に息をのんだ。
見事な緋色の鉄橋が、目の前に長く横たわっていた。
整司のいる駅は、海に面した谷の西の山腹にあり、鉄橋は反対側の山腹までまっすぐに伸びている。谷は深く、鉄橋はかなりの高さだった。短いスパンで鋼鉄製の橋脚が並ぶトレッスル橋だ。
特筆すべきはその橋脚の美しさだった。一見しただけではわかりにくいが、立体的にとらえると、横桁や縦桁、横構や対傾構の組み合わせが、美しい螺旋を描いていることがわかる。
「フィボナッチ数列」
一目で心を奪われた。時間を忘れて立ち尽くした。
ときどき忘れたころに電車がやってきて、鉄橋の上でかろやかに歌う。立体の図形と音が、それぞれに心地よいリズムを生む。そのさまを整司は飽きずに見つめた。
いったいどれくらい眺めていただろう。低く垂れ込めた雲から、いつしか雪が舞い始めた。あたりは少しずつ墨を溶くように暗くなっていく。
何本目かの電車が通り過ぎたとき、整司は鉄橋が闇にまぎれ、ぼんやりとしたシルエットしか見えなくなっていることに気づいた。肩にも頭にも雪がうっすらと降り積もり、しんしんと冷えている。右腕にはめた時計を見て、目を見開いた。十九時四十九分。今日はもう登りも下りも電車は来ない。特急が通過するだけだ。
どうするべきか……駅があるのだから、あたりに人は住んでいるのだろう。駅からは見えなかったが、谷に下りて探してみるべきか。けれど、知らない家をいきなり訪ね、泊めてくれと頼むのは、整司にはかなり難しいことだった。
途方にくれていると、ホームの端から男性が一人、ゆっくりと階段を上がってきた。
背の高い男だった。整司の父親よりも少し年上、指導教官くらいだろうか。眼鏡をかけ、大きな鞄を一つ提げている。白髪交じりの髪が、降り積もった雪のように見えた。
彼は淡々とした口調で言った。
「これ以上待っても電車は来ないよ」
思ったよりも若々しい声。
それが白波瀬との出会いだった。

89番目の駅 ―prologue―

2018-09-19
いくつめかのトンネルを抜けると、規則的な振動がゆっくりと遅くなった。
ゆるやかな減速を、整司(せいじ)は頭の中で数式に置き換える。シンプルな運動方程式。それを打ち砕く揺れとともに停止した電車は、そのまま沈黙してしまった。
頭の中で広げた時刻表をめくり、整司は沈黙の意味を理解した。この鈍行列車は、ここで特急列車の通過を待つのだ。
古びた車両には整司一人しか乗っていない。彼はそのデータを口に出して確かめた。
「八十七番目の駅、神住(かすみ)。八分の停車」
防寒のため閉まったままのドアの向こうから、低い海鳴りが聞こえている。神住の冬の音だ。冬の日本海は天候に関係なくこんな音を立てる。一年前初めてこのあたりを訪れてから、冬のあいだに四度、整司はこの音を聞いた。
そう、最初の訪問からもう一年になるのだ。
そのあいだに整司は二十二になり、白波瀬(しらはぜ)は五十六になった。美しい数字の関係は崩れ、代わりに居心地のいい関係が築かれた。
二十二年の人生で、他人のそばを「居心地がいい」と思うのは、整司にとって初めての経験だった。整司を理解しようと努めてくれている両親でさえ、時折そうとは気づかず、整司の神経を逆撫でする。そういうことが、なぜか奇跡のように白波瀬にはなかった。理由は整司にもわからないし、それ自体はどうでもいい。けれど、彼のそばで数字の世界に浸って過ごす時間は、整司にとって今もっとも満たされる時間だ。
八十九番目の駅に行けば白波瀬に会える。それがこの一年、整司の気持ちの支えだった。
そんな、唯一そばにいたいと思う相手を、整司は今失おうとしている。
――アメリカの大学がきみに来てほしいと言ってきている。
昨日、大学の指導教官から告げられたことばを反芻し、整司は神経質な表情で眉をひそめた。
整司にとって、新しい環境はそれだけで大きなストレスになる。教授は生活面には手を尽くすと言ってくれたが、言葉も通じない、初対面の人間ばかりの中で果たしてまともに生活できるのか、自信はない。けれど、今の整司にとっては、はっきり言ってそれすらも些末事だった。生活面の困難はどこにいたって発生する。二十二年社会の隅でなんとか生きてきたように、今回もなんとかして乗り越えるしかない。
でも、アメリカに八十九番目の駅はない。
いや、八十九番目の駅はどこかにはあるだろう。けれど、そこは入江谷(いりえだに)ではないし、そこにあの美しい鉄橋はない。なによりそこには白波瀬がいない。当然だ。当然だが、それはアメリカという新しい環境以上に、整司を苦しめる問題だった。
窓の外では雪がちらつき始めている。白波瀬が好きだと言う、荒々しい冬の日本海。低く垂れ込めた灰色の雲と、美しい数列の孤を描く雪化粧の鉄橋。今日の入江谷駅は一年前と同じ風景だろう。そこにいる相手を思い浮かべると、胸の奥がキリと痛んだ。
アメリカで整司が乗る電車は、どんなに遠くまで乗っても、けっして白波瀬のもとにまではつながっていない。それを思うだけで心臓の横あたりがキリキリと痛む。叫びだしたい衝動に駆られる。堪えきれず、ダッフルコートの胸元を掴み、足を踏みならしてわめいた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!!」
わめくだけわめいたら、少しだけすっきりした。ほぼ同時にゴトンと電車が動き出す。
あと二駅。あと十八分。
八十九番目の駅には白波瀬がいる。それは整司にとってとても、とても重要なことだ。水と空気と数字と同じくらいに。
どうして周囲の人間は、それをわかってくれないのだろう。
整司は両手に顔を埋めた。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
ほかの誰がわからなくても、白波瀬だけはわかってくれると思っていたのに。