一番好きな数字はときかれたら、八十九と答えることにしている。
今の自分のはじまりの場所。
彼と自分の、はじまりの場所。
大学のキャンパスを出ようとしたところで、背後から派手なクラクションが聞こえた。心躍る週末の午後、学生が待ち合わせでもしていたのだろう。振り返りもせず、整司(せいじ)は地下鉄の駅へと先を急いだ。
「先生(サー)!」
女性の声も気に留めなかった。とにかく今日は一刻も早く帰りたい。
だが、
「教授(プロフェツサー)! ちょっと、セイったら!」
そこまで呼ばれて、整司はようやく呼ばれているのが自分だと気づいた。
振り返ると、年季の入った車の運転席から、同じ研究室(ラボ)で秘書をしている黒人女性が手を振っている。慌ててそちらに駆け寄った。
「すみません、気づかなくて。何か?」
「急いでるんでしょ? 乗せてきますよ」
目顔で助手席を示される。ちょっと迷って、整司は「ありがとう」と乗り込んだ。
と、運転席の彼女が、車を出しながらふいにくすくすと笑い出す。
「? どうかしましたか」
たずねると、「だって」とおかしそうに肩をすくめた。
「セイったら、こないだ同じ手にひっかかったばっかりなのに、疑いもせずに乗ってくるんだもの」
「同じ手……ですか?」
「ラボの女の子の車に乗っちゃって、あやうく恋人扱いされるところだったじゃないの」
もてるんだから気をつけなきゃ、あぶなっかしいわねと笑う。
整司は首をかしげ、「気をつけているつもりですが」と生真面目に答えた。
「でも、あなたはそんなことをする人ではありません」
整司より十歳近く年下でありながら、昼間はラボで熱心に働き、夜はシングルマザーとして子どもに愛情を注いでいる。そんな彼女が、整司や子どもを裏切る真似などするはずがない。
整司の答えに彼女は一瞬虚を衝かれたように黙り込み、仕方ないわねというようにほほ笑んだ。
「まったく、セイったらお人好しなんだから」
そんなふうに笑われる理由がわからない。困惑し、「思ったことを言っただけですよ」とだけ返して、整司は窓の外に視線を向けた。
大きな川沿いの土手道、頭の上を薄紅色の花の雲が通り過ぎていく。
アメリカにも桜はあるのだということを、ここに来てから整司は知った。日本ほど行事化されてはいないが、人々が開花を心待ちにし、花を愛でるのはこの国も同じだ。
ぼんやりと眺めながら、最初の年は花見どころじゃなかったな……と、なつかしさに目を細めた。こちらで桜の花を見るのも、今年でもう八年目になる。
かつて白波瀬(しらはぜ)が勧めてくれたとおり、アメリカは整司にとってある意味生活しやすい場所だった。発達障害への理解が日本とは比較にならないほど深く、社会にも浸透している。ことばや表現がフランクで、日本のように曖昧な協調性を強いられることもない。人種差別がないわけではないが、少なくとも整司のラボのボスは徹底した能力主義者だ。
それでも、渡米当初の整司は学友たちに馴染めなかった。
アメリカに来れば白波瀬と一緒にいられる。ただそれだけのために、整司は渡米したと言っても過言ではない。こちらで学び、生活するということについてなんの覚悟もできていなかった。甘かった。加えて、対人関係に消極的だったことも災いした。とうに成人した整司が、白波瀬に手を引かれるようにして過ごす様子を、学友たちは良しとしなかった。
何度かの衝突ののち、整司は自分の消極的な態度そのものが彼らの不信感を呼んでいることに気づいた。改めて自分の障害について説明し、そのために消極的になっていたことを詫びた。自立しようと努めるが、急には無理かもしれない。不快な思いをさせたら申し訳ない、けれど、できるだけ普通に接してほしいと、ことばを尽くして頼んだ。
それは整司にとってつらい作業だった。それまで二十三年間、整司は医師に障害を指摘されながらも、自分は普通だと信じていた。自分の生きづらさと向き合うこと、認めること、それを他人に説明すること……どれもがつらくて、白波瀬に当たり散らしたこともある。
けれど、結果はついてきた。彼らは「わかった(Yes)」と答えてくれた。「そういうことなら協力するよ。仲間だからね」。それ以来、その件について衝突は一度も起きていない。
整司の環境が整ったことを見届けて、白波瀬は帰国していった。二人であの八十九番目の駅を発ってから、一年半が過ぎていた。
整司の元を去るとき、白波瀬は二つ約束を残した。
一つは、日本から連れてきたミケさんの世話を整司に頼むということ。
もう一つは再会の約束。
「八十九日に一度、かならずきみに会いにくるよ」
整司がこだわるその数字をとって、退官するまでの六年半、二十七回。その約束が果たされなかったことはない。三ヶ月に一度、白波瀬はかならず飛行機に乗り、整司に会いに来てくれた。それ以外にも二回――ミケさんが亡くなったときと、整司がインフルエンザをこじらせて生死の境をさまよったとき、白波瀬は整司の元を訪れてくれた。
毎日のようにスカイプ越しに話した。海を隔てていたけれど、気持ちの上では、両親よりも、こちらの恩師や学友たちよりも――だれよりも白波瀬は整司に寄り添っていてくれた。
こころが安定していたぶん、学業は順調に進んだ。日本の大学に比べ、こちらの研究は格段に自由度が高い。個人研究の場合、興味のある分野だけに没頭しても、成果さえ出せば評価される。
整司は最初の一年で修士課程を、次の二年で博士課程を修了し、大学のラボに職を得た。ただ、コミュニケーションに不自由があるため、一般の講義を受け持つには不安があった。だから、最初はティーチングアシスタントからの出発だった。
やがて、ある論文で賞をもらい、教授の推薦を受けて一足飛びに准教授になった。さらにミレニアム懸賞問題のひとつを解明直前まで導いたことで、ラボで一番若い教授になったのは昨年のことだ。
今年整司は三十になる。あと三年で白波瀬の年のちょうど半分だ。整司がそう言うと、彼はまだ半分だよと笑う。小さくはない年の差だが、整司にとっては大きな問題ではない。白波瀬は、ただ白波瀬であるというだけで、整司にとって何より特別な存在なのだから。
「着いたわよ、セイ」
郊外の住宅街、淡いクリーム色の家の前で車が停まった。とたんに現実に引き戻される。
そわそわとした整司の視線を追って家のほうに目をやった彼女が、不思議そうに首をかしげた。
「あら、窓が開いてるわ。誰か来てるの?」
「お……」
恩師がと言おうとして、整司はことばを切った。
「……恋人が」
神妙な顔で言い直した整司に、彼女は一瞬目を丸くし、破顔した。
「まあ、すてきね。ご馳走様!」
「ご馳走様……?」
「羨ましいって意味よ。いい週末を」
「ありがとう、きみも」
ハグを交わし、車を降りた。走り去る車を見送る間も惜しんで体をひるがえす。
玄関に続くアプローチに踏み込むと同時、テラスに続くドアが開き、待ち焦がれた人が姿を現した。
「しろさん!」
整司は一目散に駆け寄った。
体当たりの勢いで抱きついた整司の体を受け止め、白波瀬は笑って頬にキスをしてくれる。
「おかえり、整」
「うん、しろさんも。おかえりなさい」
言ってから、ああ、そうなんだ、「おかえり」なんだと思った。たまらなくうれしい。笑みがこぼれる。
六年半の歳月を経て、今日から再び二人はこの家で一緒に暮らす。その記念すべき日の再会の会話にしてはあまりにも自然で、それがおかしくて……でも、自分たちらしいとも思い、整司はくすくすと笑った。
これからはこれが当たり前の日常になるのだ。毎日、大好きなひとと「おかえり」と「ただいま」を交わす。そのありふれた、けれど、この上ない幸福の始まりが今というだけ。
大好きなひとを見上げ、整司はしあわせに溶け崩れそうな気分でほほ笑んだ。
「しろさん、引っ越しはもう終わったんですか?」
「ああ、荷物はほとんど先に送ってたからね」
「そうですか。……あ」
ドアをくぐると、家中にいい匂いが満ちていた。
誰かの作ったご飯の匂い。やさしくあたたかい、生活の匂い……。
「晩ご飯、作ってくれたんですか」
「たいしたものじゃないよ」
「うれしいです」
首を横に振り、整司は大真面目に繰り返した。
「すごく、うれしい」
ふっとほほ笑んだ白波瀬がポンと肩をたたき、「手を洗っておいで」と言う。
こんなしあわせがあっていいんだろうかと思いながら皿を運び、夕食の席に着いた。
並んだメニューは、ポークソテーにだし巻き玉子味のオムレツ、コンソメスープとグリーンサラダ。
「いただきます」
テーブルで向かい合い、箸を操る白波瀬をちらちらとうかがった。ほほ笑む顔を見ると、ドキドキして目を合わせていられない。でも、彼の視線が外れると、思わずまた見入ってしまう。気づかれないように……と思っているのは本人だけだ。
目尻の皺が深くなったなと思った。六年半のうちに白波瀬の頭は白髪のほうが多くなり、老眼鏡が手放せなくなった。けれど、そんなところも全部好きだ。
この三月、勤めていた大学を定年で退官した彼は、入江谷の家を引き払い、渡米してきた。今後は近所の専門学校で数学を教えながら、年に数回、名誉教授として講義をしに帰国する予定だという。
一年前、ごく自然に、退職したら一緒に暮らそうと言ってくれた彼に、整司は一つだけ願いを口にした。
「それならしろさん、今度こそ、家族として……伴侶として、一生そばにいさせてくれませんか」
八年前、「好きだ」と言いながら自分を拒んだ白波瀬の行動の意味を、今の整司は理解している。八年間、考えて考えて考え続け、ときには白波瀬を問い詰めて、理解した。自分がどれほど愛されているか。白波瀬の愛がどれほど深いものなのか。
だから、同居の話が出た際にはっきり告げた。
「僕はきっとこの先も、一生あなたしかほしくないんです」
触れ合える距離でさびしさに泣き、海を隔てて離れてもなお――六年半という歳月ですら、整司の気持ちを変えることはできなかった。
いつでもほしいのは白波瀬だけ。水と空気と数字のように。
「しろさん、どうか拒まないで……」
今夜、寝室ですがるように言った整司に、白波瀬は困ったように……ほろりと崩れるようにほほ笑んで眉尻を下げた。
「ずっと欲しかったのは、わたしのほうなんだよ、整」
そっと慈しむような口づけが落ちてくる。
初めての行為は、ゆったりとおだやかだった。
白波瀬の乾いてすべすべとした肌に触れ、その心音を聞くだけで、整司の世界は満ちていく。
「……っ」
初めて彼の手に導かれて極めたあと、整司は静かに涙をこぼした。
こんなしあわせはないと思った。白波瀬のことが好きで好きで好きで、彼に好かれていることがたまらなくうれしい。ただこうして白波瀬と触れ合っているだけで、世界は幸福に満ちていく。
しあわせに胸が詰まるようで、整司は白波瀬の肩に額を寄せた。
「整?」
どうしたの、とたずねる彼の胸に額をこすりつけ、整司はささやいた。
「しろさん、あなたといると僕はいつも苦しくなるくらいしあわせです」
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
美しい数列の数字の比が、やがて世界で一番美しい形に近づいていくように。
彼と重ねる日々は、どこまでも幸福に満ちていく。
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