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89番目の駅 ―epilog―

一番好きな数字はときかれたら、八十九と答えることにしている。
今の自分のはじまりの場所。
彼と自分の、はじまりの場所。


大学のキャンパスを出ようとしたところで、背後から派手なクラクションが聞こえた。心躍る週末の午後、学生が待ち合わせでもしていたのだろう。振り返りもせず、整司(せいじ)は地下鉄の駅へと先を急いだ。
「先生(サー)!」
女性の声も気に留めなかった。とにかく今日は一刻も早く帰りたい。
だが、
「教授(プロフェツサー)! ちょっと、セイったら!」
そこまで呼ばれて、整司はようやく呼ばれているのが自分だと気づいた。
振り返ると、年季の入った車の運転席から、同じ研究室(ラボ)で秘書をしている黒人女性が手を振っている。慌ててそちらに駆け寄った。
「すみません、気づかなくて。何か?」
「急いでるんでしょ? 乗せてきますよ」
目顔で助手席を示される。ちょっと迷って、整司は「ありがとう」と乗り込んだ。
と、運転席の彼女が、車を出しながらふいにくすくすと笑い出す。
「? どうかしましたか」
たずねると、「だって」とおかしそうに肩をすくめた。
「セイったら、こないだ同じ手にひっかかったばっかりなのに、疑いもせずに乗ってくるんだもの」
「同じ手……ですか?」
「ラボの女の子の車に乗っちゃって、あやうく恋人扱いされるところだったじゃないの」
もてるんだから気をつけなきゃ、あぶなっかしいわねと笑う。
整司は首をかしげ、「気をつけているつもりですが」と生真面目に答えた。
「でも、あなたはそんなことをする人ではありません」
整司より十歳近く年下でありながら、昼間はラボで熱心に働き、夜はシングルマザーとして子どもに愛情を注いでいる。そんな彼女が、整司や子どもを裏切る真似などするはずがない。
整司の答えに彼女は一瞬虚を衝かれたように黙り込み、仕方ないわねというようにほほ笑んだ。
「まったく、セイったらお人好しなんだから」
そんなふうに笑われる理由がわからない。困惑し、「思ったことを言っただけですよ」とだけ返して、整司は窓の外に視線を向けた。
大きな川沿いの土手道、頭の上を薄紅色の花の雲が通り過ぎていく。
アメリカにも桜はあるのだということを、ここに来てから整司は知った。日本ほど行事化されてはいないが、人々が開花を心待ちにし、花を愛でるのはこの国も同じだ。
ぼんやりと眺めながら、最初の年は花見どころじゃなかったな……と、なつかしさに目を細めた。こちらで桜の花を見るのも、今年でもう八年目になる。
かつて白波瀬(しらはぜ)が勧めてくれたとおり、アメリカは整司にとってある意味生活しやすい場所だった。発達障害への理解が日本とは比較にならないほど深く、社会にも浸透している。ことばや表現がフランクで、日本のように曖昧な協調性を強いられることもない。人種差別がないわけではないが、少なくとも整司のラボのボスは徹底した能力主義者だ。
それでも、渡米当初の整司は学友たちに馴染めなかった。
アメリカに来れば白波瀬と一緒にいられる。ただそれだけのために、整司は渡米したと言っても過言ではない。こちらで学び、生活するということについてなんの覚悟もできていなかった。甘かった。加えて、対人関係に消極的だったことも災いした。とうに成人した整司が、白波瀬に手を引かれるようにして過ごす様子を、学友たちは良しとしなかった。
何度かの衝突ののち、整司は自分の消極的な態度そのものが彼らの不信感を呼んでいることに気づいた。改めて自分の障害について説明し、そのために消極的になっていたことを詫びた。自立しようと努めるが、急には無理かもしれない。不快な思いをさせたら申し訳ない、けれど、できるだけ普通に接してほしいと、ことばを尽くして頼んだ。
それは整司にとってつらい作業だった。それまで二十三年間、整司は医師に障害を指摘されながらも、自分は普通だと信じていた。自分の生きづらさと向き合うこと、認めること、それを他人に説明すること……どれもがつらくて、白波瀬に当たり散らしたこともある。
けれど、結果はついてきた。彼らは「わかった(Yes)」と答えてくれた。「そういうことなら協力するよ。仲間だからね」。それ以来、その件について衝突は一度も起きていない。
整司の環境が整ったことを見届けて、白波瀬は帰国していった。二人であの八十九番目の駅を発ってから、一年半が過ぎていた。
整司の元を去るとき、白波瀬は二つ約束を残した。
一つは、日本から連れてきたミケさんの世話を整司に頼むということ。
もう一つは再会の約束。
「八十九日に一度、かならずきみに会いにくるよ」
整司がこだわるその数字をとって、退官するまでの六年半、二十七回。その約束が果たされなかったことはない。三ヶ月に一度、白波瀬はかならず飛行機に乗り、整司に会いに来てくれた。それ以外にも二回――ミケさんが亡くなったときと、整司がインフルエンザをこじらせて生死の境をさまよったとき、白波瀬は整司の元を訪れてくれた。
毎日のようにスカイプ越しに話した。海を隔てていたけれど、気持ちの上では、両親よりも、こちらの恩師や学友たちよりも――だれよりも白波瀬は整司に寄り添っていてくれた。
こころが安定していたぶん、学業は順調に進んだ。日本の大学に比べ、こちらの研究は格段に自由度が高い。個人研究の場合、興味のある分野だけに没頭しても、成果さえ出せば評価される。
整司は最初の一年で修士課程を、次の二年で博士課程を修了し、大学のラボに職を得た。ただ、コミュニケーションに不自由があるため、一般の講義を受け持つには不安があった。だから、最初はティーチングアシスタントからの出発だった。
やがて、ある論文で賞をもらい、教授の推薦を受けて一足飛びに准教授になった。さらにミレニアム懸賞問題のひとつを解明直前まで導いたことで、ラボで一番若い教授になったのは昨年のことだ。
今年整司は三十になる。あと三年で白波瀬の年のちょうど半分だ。整司がそう言うと、彼はまだ半分だよと笑う。小さくはない年の差だが、整司にとっては大きな問題ではない。白波瀬は、ただ白波瀬であるというだけで、整司にとって何より特別な存在なのだから。
「着いたわよ、セイ」
郊外の住宅街、淡いクリーム色の家の前で車が停まった。とたんに現実に引き戻される。
そわそわとした整司の視線を追って家のほうに目をやった彼女が、不思議そうに首をかしげた。
「あら、窓が開いてるわ。誰か来てるの?」
「お……」
恩師がと言おうとして、整司はことばを切った。
「……恋人が」
神妙な顔で言い直した整司に、彼女は一瞬目を丸くし、破顔した。
「まあ、すてきね。ご馳走様!」
「ご馳走様……?」
「羨ましいって意味よ。いい週末を」
「ありがとう、きみも」
ハグを交わし、車を降りた。走り去る車を見送る間も惜しんで体をひるがえす。
玄関に続くアプローチに踏み込むと同時、テラスに続くドアが開き、待ち焦がれた人が姿を現した。
「しろさん!」
整司は一目散に駆け寄った。
体当たりの勢いで抱きついた整司の体を受け止め、白波瀬は笑って頬にキスをしてくれる。
「おかえり、整」
「うん、しろさんも。おかえりなさい」
言ってから、ああ、そうなんだ、「おかえり」なんだと思った。たまらなくうれしい。笑みがこぼれる。
六年半の歳月を経て、今日から再び二人はこの家で一緒に暮らす。その記念すべき日の再会の会話にしてはあまりにも自然で、それがおかしくて……でも、自分たちらしいとも思い、整司はくすくすと笑った。
これからはこれが当たり前の日常になるのだ。毎日、大好きなひとと「おかえり」と「ただいま」を交わす。そのありふれた、けれど、この上ない幸福の始まりが今というだけ。
大好きなひとを見上げ、整司はしあわせに溶け崩れそうな気分でほほ笑んだ。
「しろさん、引っ越しはもう終わったんですか?」
「ああ、荷物はほとんど先に送ってたからね」
「そうですか。……あ」
ドアをくぐると、家中にいい匂いが満ちていた。
誰かの作ったご飯の匂い。やさしくあたたかい、生活の匂い……。
「晩ご飯、作ってくれたんですか」
「たいしたものじゃないよ」
「うれしいです」
首を横に振り、整司は大真面目に繰り返した。
「すごく、うれしい」
ふっとほほ笑んだ白波瀬がポンと肩をたたき、「手を洗っておいで」と言う。
こんなしあわせがあっていいんだろうかと思いながら皿を運び、夕食の席に着いた。
並んだメニューは、ポークソテーにだし巻き玉子味のオムレツ、コンソメスープとグリーンサラダ。
「いただきます」
テーブルで向かい合い、箸を操る白波瀬をちらちらとうかがった。ほほ笑む顔を見ると、ドキドキして目を合わせていられない。でも、彼の視線が外れると、思わずまた見入ってしまう。気づかれないように……と思っているのは本人だけだ。
目尻の皺が深くなったなと思った。六年半のうちに白波瀬の頭は白髪のほうが多くなり、老眼鏡が手放せなくなった。けれど、そんなところも全部好きだ。
この三月、勤めていた大学を定年で退官した彼は、入江谷の家を引き払い、渡米してきた。今後は近所の専門学校で数学を教えながら、年に数回、名誉教授として講義をしに帰国する予定だという。
一年前、ごく自然に、退職したら一緒に暮らそうと言ってくれた彼に、整司は一つだけ願いを口にした。
「それならしろさん、今度こそ、家族として……伴侶として、一生そばにいさせてくれませんか」
八年前、「好きだ」と言いながら自分を拒んだ白波瀬の行動の意味を、今の整司は理解している。八年間、考えて考えて考え続け、ときには白波瀬を問い詰めて、理解した。自分がどれほど愛されているか。白波瀬の愛がどれほど深いものなのか。
だから、同居の話が出た際にはっきり告げた。
「僕はきっとこの先も、一生あなたしかほしくないんです」
触れ合える距離でさびしさに泣き、海を隔てて離れてもなお――六年半という歳月ですら、整司の気持ちを変えることはできなかった。
いつでもほしいのは白波瀬だけ。水と空気と数字のように。
「しろさん、どうか拒まないで……」
今夜、寝室ですがるように言った整司に、白波瀬は困ったように……ほろりと崩れるようにほほ笑んで眉尻を下げた。
「ずっと欲しかったのは、わたしのほうなんだよ、整」
そっと慈しむような口づけが落ちてくる。
初めての行為は、ゆったりとおだやかだった。
白波瀬の乾いてすべすべとした肌に触れ、その心音を聞くだけで、整司の世界は満ちていく。
「……っ」
初めて彼の手に導かれて極めたあと、整司は静かに涙をこぼした。
こんなしあわせはないと思った。白波瀬のことが好きで好きで好きで、彼に好かれていることがたまらなくうれしい。ただこうして白波瀬と触れ合っているだけで、世界は幸福に満ちていく。
しあわせに胸が詰まるようで、整司は白波瀬の肩に額を寄せた。
「整?」
どうしたの、とたずねる彼の胸に額をこすりつけ、整司はささやいた。
「しろさん、あなたといると僕はいつも苦しくなるくらいしあわせです」


1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
美しい数列の数字の比が、やがて世界で一番美しい形に近づいていくように。
彼と重ねる日々は、どこまでも幸福に満ちていく。

89番目の駅

89番目の駅 ―epilog―

2018-11-19
一番好きな数字はときかれたら、八十九と答えることにしている。
今の自分のはじまりの場所。
彼と自分の、はじまりの場所。


大学のキャンパスを出ようとしたところで、背後から派手なクラクションが聞こえた。心躍る週末の午後、学生が待ち合わせでもしていたのだろう。振り返りもせず、整司(せいじ)は地下鉄の駅へと先を急いだ。
「先生(サー)!」
女性の声も気に留めなかった。とにかく今日は一刻も早く帰りたい。
だが、
「教授(プロフェツサー)! ちょっと、セイったら!」
そこまで呼ばれて、整司はようやく呼ばれているのが自分だと気づいた。
振り返ると、年季の入った車の運転席から、同じ研究室(ラボ)で秘書をしている黒人女性が手を振っている。慌ててそちらに駆け寄った。
「すみません、気づかなくて。何か?」
「急いでるんでしょ? 乗せてきますよ」
目顔で助手席を示される。ちょっと迷って、整司は「ありがとう」と乗り込んだ。
と、運転席の彼女が、車を出しながらふいにくすくすと笑い出す。
「? どうかしましたか」
たずねると、「だって」とおかしそうに肩をすくめた。
「セイったら、こないだ同じ手にひっかかったばっかりなのに、疑いもせずに乗ってくるんだもの」
「同じ手……ですか?」
「ラボの女の子の車に乗っちゃって、あやうく恋人扱いされるところだったじゃないの」
もてるんだから気をつけなきゃ、あぶなっかしいわねと笑う。
整司は首をかしげ、「気をつけているつもりですが」と生真面目に答えた。
「でも、あなたはそんなことをする人ではありません」
整司より十歳近く年下でありながら、昼間はラボで熱心に働き、夜はシングルマザーとして子どもに愛情を注いでいる。そんな彼女が、整司や子どもを裏切る真似などするはずがない。
整司の答えに彼女は一瞬虚を衝かれたように黙り込み、仕方ないわねというようにほほ笑んだ。
「まったく、セイったらお人好しなんだから」
そんなふうに笑われる理由がわからない。困惑し、「思ったことを言っただけですよ」とだけ返して、整司は窓の外に視線を向けた。
大きな川沿いの土手道、頭の上を薄紅色の花の雲が通り過ぎていく。
アメリカにも桜はあるのだということを、ここに来てから整司は知った。日本ほど行事化されてはいないが、人々が開花を心待ちにし、花を愛でるのはこの国も同じだ。
ぼんやりと眺めながら、最初の年は花見どころじゃなかったな……と、なつかしさに目を細めた。こちらで桜の花を見るのも、今年でもう八年目になる。
かつて白波瀬(しらはぜ)が勧めてくれたとおり、アメリカは整司にとってある意味生活しやすい場所だった。発達障害への理解が日本とは比較にならないほど深く、社会にも浸透している。ことばや表現がフランクで、日本のように曖昧な協調性を強いられることもない。人種差別がないわけではないが、少なくとも整司のラボのボスは徹底した能力主義者だ。
それでも、渡米当初の整司は学友たちに馴染めなかった。
アメリカに来れば白波瀬と一緒にいられる。ただそれだけのために、整司は渡米したと言っても過言ではない。こちらで学び、生活するということについてなんの覚悟もできていなかった。甘かった。加えて、対人関係に消極的だったことも災いした。とうに成人した整司が、白波瀬に手を引かれるようにして過ごす様子を、学友たちは良しとしなかった。
何度かの衝突ののち、整司は自分の消極的な態度そのものが彼らの不信感を呼んでいることに気づいた。改めて自分の障害について説明し、そのために消極的になっていたことを詫びた。自立しようと努めるが、急には無理かもしれない。不快な思いをさせたら申し訳ない、けれど、できるだけ普通に接してほしいと、ことばを尽くして頼んだ。
それは整司にとってつらい作業だった。それまで二十三年間、整司は医師に障害を指摘されながらも、自分は普通だと信じていた。自分の生きづらさと向き合うこと、認めること、それを他人に説明すること……どれもがつらくて、白波瀬に当たり散らしたこともある。
けれど、結果はついてきた。彼らは「わかった(Yes)」と答えてくれた。「そういうことなら協力するよ。仲間だからね」。それ以来、その件について衝突は一度も起きていない。
整司の環境が整ったことを見届けて、白波瀬は帰国していった。二人であの八十九番目の駅を発ってから、一年半が過ぎていた。
整司の元を去るとき、白波瀬は二つ約束を残した。
一つは、日本から連れてきたミケさんの世話を整司に頼むということ。
もう一つは再会の約束。
「八十九日に一度、かならずきみに会いにくるよ」
整司がこだわるその数字をとって、退官するまでの六年半、二十七回。その約束が果たされなかったことはない。三ヶ月に一度、白波瀬はかならず飛行機に乗り、整司に会いに来てくれた。それ以外にも二回――ミケさんが亡くなったときと、整司がインフルエンザをこじらせて生死の境をさまよったとき、白波瀬は整司の元を訪れてくれた。
毎日のようにスカイプ越しに話した。海を隔てていたけれど、気持ちの上では、両親よりも、こちらの恩師や学友たちよりも――だれよりも白波瀬は整司に寄り添っていてくれた。
こころが安定していたぶん、学業は順調に進んだ。日本の大学に比べ、こちらの研究は格段に自由度が高い。個人研究の場合、興味のある分野だけに没頭しても、成果さえ出せば評価される。
整司は最初の一年で修士課程を、次の二年で博士課程を修了し、大学のラボに職を得た。ただ、コミュニケーションに不自由があるため、一般の講義を受け持つには不安があった。だから、最初はティーチングアシスタントからの出発だった。
やがて、ある論文で賞をもらい、教授の推薦を受けて一足飛びに准教授になった。さらにミレニアム懸賞問題のひとつを解明直前まで導いたことで、ラボで一番若い教授になったのは昨年のことだ。
今年整司は三十になる。あと三年で白波瀬の年のちょうど半分だ。整司がそう言うと、彼はまだ半分だよと笑う。小さくはない年の差だが、整司にとっては大きな問題ではない。白波瀬は、ただ白波瀬であるというだけで、整司にとって何より特別な存在なのだから。
「着いたわよ、セイ」
郊外の住宅街、淡いクリーム色の家の前で車が停まった。とたんに現実に引き戻される。
そわそわとした整司の視線を追って家のほうに目をやった彼女が、不思議そうに首をかしげた。
「あら、窓が開いてるわ。誰か来てるの?」
「お……」
恩師がと言おうとして、整司はことばを切った。
「……恋人が」
神妙な顔で言い直した整司に、彼女は一瞬目を丸くし、破顔した。
「まあ、すてきね。ご馳走様!」
「ご馳走様……?」
「羨ましいって意味よ。いい週末を」
「ありがとう、きみも」
ハグを交わし、車を降りた。走り去る車を見送る間も惜しんで体をひるがえす。
玄関に続くアプローチに踏み込むと同時、テラスに続くドアが開き、待ち焦がれた人が姿を現した。
「しろさん!」
整司は一目散に駆け寄った。
体当たりの勢いで抱きついた整司の体を受け止め、白波瀬は笑って頬にキスをしてくれる。
「おかえり、整」
「うん、しろさんも。おかえりなさい」
言ってから、ああ、そうなんだ、「おかえり」なんだと思った。たまらなくうれしい。笑みがこぼれる。
六年半の歳月を経て、今日から再び二人はこの家で一緒に暮らす。その記念すべき日の再会の会話にしてはあまりにも自然で、それがおかしくて……でも、自分たちらしいとも思い、整司はくすくすと笑った。
これからはこれが当たり前の日常になるのだ。毎日、大好きなひとと「おかえり」と「ただいま」を交わす。そのありふれた、けれど、この上ない幸福の始まりが今というだけ。
大好きなひとを見上げ、整司はしあわせに溶け崩れそうな気分でほほ笑んだ。
「しろさん、引っ越しはもう終わったんですか?」
「ああ、荷物はほとんど先に送ってたからね」
「そうですか。……あ」
ドアをくぐると、家中にいい匂いが満ちていた。
誰かの作ったご飯の匂い。やさしくあたたかい、生活の匂い……。
「晩ご飯、作ってくれたんですか」
「たいしたものじゃないよ」
「うれしいです」
首を横に振り、整司は大真面目に繰り返した。
「すごく、うれしい」
ふっとほほ笑んだ白波瀬がポンと肩をたたき、「手を洗っておいで」と言う。
こんなしあわせがあっていいんだろうかと思いながら皿を運び、夕食の席に着いた。
並んだメニューは、ポークソテーにだし巻き玉子味のオムレツ、コンソメスープとグリーンサラダ。
「いただきます」
テーブルで向かい合い、箸を操る白波瀬をちらちらとうかがった。ほほ笑む顔を見ると、ドキドキして目を合わせていられない。でも、彼の視線が外れると、思わずまた見入ってしまう。気づかれないように……と思っているのは本人だけだ。
目尻の皺が深くなったなと思った。六年半のうちに白波瀬の頭は白髪のほうが多くなり、老眼鏡が手放せなくなった。けれど、そんなところも全部好きだ。
この三月、勤めていた大学を定年で退官した彼は、入江谷の家を引き払い、渡米してきた。今後は近所の専門学校で数学を教えながら、年に数回、名誉教授として講義をしに帰国する予定だという。
一年前、ごく自然に、退職したら一緒に暮らそうと言ってくれた彼に、整司は一つだけ願いを口にした。
「それならしろさん、今度こそ、家族として……伴侶として、一生そばにいさせてくれませんか」
八年前、「好きだ」と言いながら自分を拒んだ白波瀬の行動の意味を、今の整司は理解している。八年間、考えて考えて考え続け、ときには白波瀬を問い詰めて、理解した。自分がどれほど愛されているか。白波瀬の愛がどれほど深いものなのか。
だから、同居の話が出た際にはっきり告げた。
「僕はきっとこの先も、一生あなたしかほしくないんです」
触れ合える距離でさびしさに泣き、海を隔てて離れてもなお――六年半という歳月ですら、整司の気持ちを変えることはできなかった。
いつでもほしいのは白波瀬だけ。水と空気と数字のように。
「しろさん、どうか拒まないで……」
今夜、寝室ですがるように言った整司に、白波瀬は困ったように……ほろりと崩れるようにほほ笑んで眉尻を下げた。
「ずっと欲しかったのは、わたしのほうなんだよ、整」
そっと慈しむような口づけが落ちてくる。
初めての行為は、ゆったりとおだやかだった。
白波瀬の乾いてすべすべとした肌に触れ、その心音を聞くだけで、整司の世界は満ちていく。
「……っ」
初めて彼の手に導かれて極めたあと、整司は静かに涙をこぼした。
こんなしあわせはないと思った。白波瀬のことが好きで好きで好きで、彼に好かれていることがたまらなくうれしい。ただこうして白波瀬と触れ合っているだけで、世界は幸福に満ちていく。
しあわせに胸が詰まるようで、整司は白波瀬の肩に額を寄せた。
「整?」
どうしたの、とたずねる彼の胸に額をこすりつけ、整司はささやいた。
「しろさん、あなたといると僕はいつも苦しくなるくらいしあわせです」


1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
美しい数列の数字の比が、やがて世界で一番美しい形に近づいていくように。
彼と重ねる日々は、どこまでも幸福に満ちていく。

89番目の駅 ―6―

2018-11-01
間近なぬくもりが身じろいで、白波瀬はふと瞼を上げた。夜明け間近の青い光が、古びた部屋を満たしている。
隣りの布団から差し出されたか細い手が、離れかけた白波瀬の手を引き留めた。眠っていてなお、すがるようなしぐさが、白波瀬の胸をせつなくさせる。
幼い表情で眠る青年の頬を指の背で撫でた。肌に張りのない自分の指が整司のすべらかな頬には不似合いで、ふと眉を寄せる。
魅力にあふれた青年だ。若く、素晴らしい才能を持っている。
最初は単純に彼の数学的才能に惹かれた。そのひらめきは「天才」と呼んでいい。導く者さえいればいずれ世に名を知られることになるだろう才能を、自らの手で育ててみたいと思った。
けれど、白波瀬の心を決定的にさらったのは、彼の無垢な子どものような純真さだった。
生きるのに少し不自由で、けれど、本来の彼の魅力はそんなことで損なわれはしない。愚直なほどにまっすぐで、純粋で……自分の気持ちに正直なぶん損をしていて。だからこそ、他人の無理解に傷つけられることも少なくない。そのため他人に対して臆病で、少し頑ななことも知っている。けれど、彼が白波瀬に寄せる信頼と思慕は、無心な赤ん坊が疑いなく母親にすべてをゆだねる姿にも似て、白波瀬の心をせつなく、あたたかく揺さぶった。
彼を愛しく思うようになったのはいつからだっただろう。
四十代半ばで妻を亡くしてから十年余り、数学以外に興味を持てるものもなく、諦観の中で恬淡と生きてきた。そんな日常に、新鮮な感動とともに飛び込んできた整司は、白波瀬の世界を鮮やかにひっくり返した。彼の不器用な、はにかんだ微笑ひとつが見たくて、いつしか訪問を心待ちにするようになった。
自分の気持ちを自覚すると同時に、それを憎んだ。彼の倍以上の年齢を重ねていながら、年甲斐もなく恋をする自分が滑稽で疎ましかった。だが、同時に安堵もした。焦がれる相手に劣情を向けなくても、何も求めずとも、望まずとも、愛せることに感謝した。
報われたいとは思わなかった――いや、正直に告白するなら、思うことを自分に禁じたのだ。ただ、許されるかたちで、許される限り、自分の持っているすべてで彼を支えようと決めた。少しでも彼が生きやすいように。その才能を無駄にしないように。
「整……」
すまない、と、泣き疲れた寝顔に声にならない声で詫びる。
彼の求愛を拒んだことを、間違っているとは思わない。彼の感情は未分化で幼く、本当の恋なのかも見定めがたい。それはきっと彼自身にも同じことだ。今、白波瀬が彼の気持ちに応えたら、彼の世界は白波瀬と二人きりで閉じてしまう。前途ある青年を、親以上に年の離れた自分が縛り付けていいはずがない。真実彼のことを思うなら、「勘違いだよ」と諭すことで――たとえそれが本当に恋愛感情だったとしても――踏み止まらせてやるのが、年長者であり指導者である白波瀬の役目だった。
けれど、最後の最後で自分は誤った。
全身で自分を「好きだ」と訴える彼を、愛しいと思わずにいられなかった。伝えずにはいられなかった。きみは本当に必要な人間なのだと、本当なら自分こそがそばにいてほしいのだと、伝えたい衝動が理性に勝った。
罪悪感に耐えるように、じっと目を瞑る。
互いに好きだけれど、恋人にはならない。
そんないびつで曖昧な関係が、いくらも保つとは思えないが……。
好きだと言いながら拒む白波瀬に、当然のことながら整司は混乱した。普通に考えても理解しがたいだろう。ましてや観念的な情緒を理解しにくい彼ならなおさらのこと。
整司は泣いて、わめいて、地団駄を踏み――それでもひどい男に「好きです」と繰り返した。泣き疲れて眠るまで。
すまないと、繰り返し繰り返し心の内で詫びる。
かわいそうに思った。つらい思いをさせていることもわかっていた。だが、白波瀬のために彼が何かを喪うことがあってはならない。ただそれだけを思って耐えた。
彼が本当に後悔しないのなら、すべてを投げ打つ覚悟は、白波瀬の側にはとっくにあるのだ。
五十余年の信念と自尊心を打ち捨ててもかまわない。今までの人生も、これからの人生も、彼のためならすべて与えて悔いはない。悔いはない……。
「整、整……」
目頭が熱くなり、彼の小さな頭をかき抱いた。
「しろさん……?」
目を開けた整司が、ぼんやりと白波瀬を見上げる。
そして母親が幼い子どもにするように、白波瀬の白髪交じりの頭をやさしく撫でた。
「しろさん、泣かないで」
慈愛のこもった、あやすような声で言う。
泣かないで……。
「整」
すべての懊悩を押し込め、白波瀬は無理に笑って頷いた。
悩むのも悔いるのも一人のときでいい。
今はこの愛しい青年のためにできる、最良のことだけを。



「来年の九月からサバティカル休暇を取ろうと思う」
炬燵で朝食をとりながら、白波瀬が言った。
耳慣れない単語。用意された朝食にも手を付けず、炬燵布団の中で丸まっていた整司は、その陰から視線だけを投げた。
ことばの意味を取り損ねたことが伝わったのだろう。白波瀬は淡々と説明した。
「研究のための長期有給休暇のことだよ。大学教員なら数年に一年認められる。わたしもそろそろどうかと勧められていてね」
白波瀬は憎らしいほどいつも通りだった。きれいな所作で操る箸が、焼き魚の身をほぐしていく。昨夜の愁嘆場など、まるでなかったかのように。
こんな老獪さも持ち合わせているのだと、こんな白波瀬は知らないと、整司はまた少し涙をこぼした。昨夜から泣き続けた目元はすっかり腫れ上がり、鬱陶しくてしかたがない。
「だから何ですか」
低くかすれてぶっきらぼうな口調も意に介さず、白波瀬は物静かにことばを継いだ。
「いい機会だから、整の留学の初年度に合わせて一年、アメリカに一緒に行くよ」
「しろさんも一緒に……?」
思わず体を起こす。
「一緒に行ってくれるかい」
たずねられ、戸惑った。
見知らぬ土地――しかも見知らぬ国だ。英語もそれほど得意じゃない。たとえ白波瀬が一緒だとしても、不安のほうが大きかった。
「整。きみが向こうの生活に慣れるのは、楽なことではないと思う」
真剣な声で白波瀬が言う。思慮深い目がこちらを見据える。
「でも、きみの才能はきっと向こうのほうが適正に評価されるよ。きみ自身も、たぶん向こうのほうが生活しやすいんじゃないかと思う。十年後、二十年後を考えたら、きみはアメリカに行くべきだ。わたしにその手助けをさせてほしい」
かき口説く口調で言われ、整司は視線をさまよわせた。
不安はまだ心の中にある。生きていく限り、消えることのない不安。けれど、それは日本にいても同じことだ。環境が変わるたび、つきあう相手が変わるたび、自分は戸惑い、不安になる。それを乗り越えていかなくてはならないのは、どこにいても同じことだ。
でも、アメリカに行けば白波瀬が一緒にいてくれる。
初めて自分をまるごと受け入れてくれたひと。可能性を信じてくれるひと。「好きだ」と言いながら整司を拒む、ずるいひと。でも、それでも、整司にとって、だれより大切な、大好きなひと……。
彼と離れないで済むのなら、どんなことでもしようと思った。彼が信じてくれるという、自分の可能性を信じてみる気になった。
頷くと、ほっとした表情で白波瀬がほほ笑む。
「きっと、きみをしあわせにするよ」
……本心から言ってくれるのなら、もっと違う意味で言ってほしいことばだったけれど。
でも、白波瀬が笑ってくれるならいいかと思った。やさしい目で見つめていてくれるなら、そばにいてくれるなら……。

すり寄ってきたミケさんがニャアと鳴く。
ゴトゴトと音を立て、電車が鉄橋を渡っていく。
低い海鳴り、海鳥の声。
八十九番目の駅の海辺の家は、今日もやさしいぬくもりに満ちていた。

89番目の駅 ―5―

2018-10-25
夕闇に沈む海辺の家は、どことなくよそよそしい顔で整司を迎えた。
そんなふうに感じるのはこの家に来るようになって初めてで、玄関の外で少しためらう。最初に訪れたときから、この家はまるで古い家族のような顔をして整司を迎え入れてくれたのに。擦りガラスの奥にぽつりと滲む光が見えなければ、そのままそこで立ち尽くしていたかもしれなかった。
家の奥の人の気配。白波瀬の気配。それだけで張り詰めていた心がぐずぐずと崩れていくみたいだ。泣きそうになる。小さな灯りに吸い寄せられるように呼び鈴を押した。
「はい?」
少し硬い白波瀬の声が遠くから答える。日が暮れたら出歩く人もいない田舎町だ。
整司は背筋を伸ばした。声が震える。
「四辻です」
「ああ、ちょっと待って」
目の前の木製の引き戸がからりと開いた。
「いらっしゃい」
「……っ」
いつもと変わらない白波瀬の顔を見たとたん、整司の中で何かが崩壊した。我慢できない。衝動のまま目の前の白波瀬に抱きつく。
「わっ、……っと」
よろめいて半歩後ずさった白波瀬は、整司の肩を支えると、慈愛深い声でたずねた。
「整、どうしたの」
「……っ、……」
「……そう、何かつらいことがあったんだね」
黙って首を振る整司の頭を、肩を、白波瀬はなだめるしぐさで撫でる。
そのやさしさがうれしく、けれど、理不尽な扱いを受けている気分になった。「つらいこと」なんて……他でもない白波瀬のしたことに傷ついたのに。
「しろさんのせいです」
一度口にしたら止まらなくなった。自分を抱き込む胸を拳で叩く。
「しろさんは僕がきらいなんですか。だからいなくなっても平気なんですか。僕なんか遠くへいってしまったらいいと思っているんですか」
自分を愛してくれながらも、いつも何かを遠慮している両親のように。
白波瀬は目を見開いた。
「せ……、」
「!」
とっさに彼の口を手でふさぐ。聞きたくなかった。もし本当に「嫌いだ」なんて言われたら、生きていけないと思った。苦しい。どうしていいかわからなくなる。嗚咽が漏れる。そうなったらもう止まらなかった。癇癪を起こした子どものように声を上げて泣いた。白波瀬は黙って整司の背を撫でてくれた。
骨張った大きな手に背中を撫でられているうちに、胸の中の嵐が少しずつ収まっていく。整司の気持ちをどうしようもなく波立てるのが白波瀬一人なら、整司の心をこれほど簡単に落ち着かせてしまえるのもまた白波瀬一人だった。
整司が泣き止むのを待って、白波瀬が口を開いた。
「中に入ろうか」
乾いた指で整司の髪を梳き、気遣わしげに「冷たい」と言う。彼に支えられるようにして家に上がった。
「どうぞ」
炬燵に入ると、いつかのように湯気を立てる湯飲みが差し出された。
膝に乗せたミケさんの背を撫でながら、整司は無言でうつむいた。言いたいことは今にも胸から溢れそうなほどなのに、何から言えばいいのか、その端緒が見つけられなかった。
代わりに白波瀬が口を開く。
「……もしかして聞いたかな」
何をとは言わない。ことばを省いた曖昧な会話は本来整司の苦手とするところだ。けれど、今ははっきりとわかった。それだけ整司の気持ちが白波瀬に、彼のことばに向いているということだ。
こくり、頷く。
白波瀬は、炬燵の角を挟んだ隣りで、小さく息をついた。
「きみのためと思ったんだけど、もしかしてわたしはきみを困らせている?」
静かな問いかけに眉を寄せる。
自分の心の隅々を確かめながらゆっくりと答えた。
「困らせられては、いないと思います」
「そう?」
また頷く。たしかに整司は困ってはいない。ただ……ただ、
「かなしい」
ぽつり、ことばがこぼれ落ちた。
白波瀬が目を細める。
「かなしい……? 不安ではなくて?」
整司はたどたどしくことばを継いだ。
「不安……でもあります。僕は新しい環境に慣れることが得意ではありません。でも、それよりも、かなしいです。今は、八十九番目の駅にはいつもしろさんがいます。でも、アメリカの八十九番目の駅には、しろさんはいません。電車に乗っても、しろさんには会えません。しろさんの家もありません。それは僕にとって、とても、とてもこわいことです。でも、しろさんはそうじゃない。僕がどこに行ってもかまわないんでしょう。それがとてもかなしいです」
「……わたしに会えないのを、さびしいと思ってくれてるんだね」
何かを噛みしめるような顔で、白波瀬はほほ笑んだ。
「たしかにさびしいかもしれないけど……」
「僕はしろさんが好きです」
きっぱりと遮った。彼の目をまっすぐ見上げる。思慮深い大人の眸。大好きな、白波瀬の。彼が何を感じ、思い、何を言うのか、全部この目で確かめたいと思う。
白波瀬は目を瞠っている。
「わたしは、……」
「僕は二十二年生きてきて、誰も好きだと思ったことがありませんでした。家族も、自分も好きになれませんでした。でも、しろさんは好きです。しろさんの家にいるのも、しろさんの声を聞くのも、しろさんと数学の話をするのも、全部好きです。大好きです。それがなくなったら、どうしたらいいのかわからない」
言っているうちにもまた焦燥が募ってくる。耐えきれず、頭を抱えて左右に振った。
「わかりません、わかりません、わかりません! どうしたらいいんですか。しろさんがいないところなんて行きたくない!」
涙と一緒にことばがほとばしる。
「一人にしないで……」
「…………」
白波瀬は呆然と整司を見ている。
そして、どこかが痛むように顔をゆがめた。けれど、何も言ってくれない。
整司は焦れた。炬燵を押しのけ、身も世もなく彼の腕に取りすがった。
「しろさんは僕がきらいなんですか」
「きらってなんかいないよ」
「じゃあ、好きですか」
「……」
白波瀬は答えてくれない。1+1は? そのくらい簡単な問いなのに。
ひどく――どうしようもなくかなしくなって、その首筋にかきついた。ちょっとなつかしいみたいな匂い。それ以上、どうしたらいいかわからず、でも、どうしたいかは知っていた。激情に衝き動かされるまま、彼の唇に唇をを寄せる。白波瀬が目を見開いて固まる。
触れ合った唇は互いに乾いて、カサカサとした感触を残した。
「しろさんが好きです」
間近な目を見つめて言い募る。
「好きです」
どうしてこれだけしか言えないんだろう。どうしてこのことばしかないんだろう。もどかしかった。体の内に溢れる感情を伝えるのに「好き」の一言は短すぎて、整司はまた泣きそうになった。もっともっとたくさん、このひとに伝えることがある気がするのに、言葉にしてしまえばひどくあっけない、たった二文字。
「好き、好きです。好きです、好きです、しろさん……」
お願いだから、そばにいて。
「あなたは僕にとって、水や空気や数字と同じなんです」
なくしては生きていけないもの。
なにより心に欠かせないひと。
「整……」
白波瀬は苦しげに目を伏せた。自らの罪を知る人の、深い苦悩の顔だった。
長い、時間の感覚がおかしくなるほど長い沈黙の後、乾いた指が頬に触れる。
ため息みたいにかすれた声がささやいた。
「整……、わたしはきみの好意には応えられない」
「……っ」
ひゅっと小さく息を飲む。
何を言われたのかわからなかった。白波瀬のことばがバラバラになり、鋭い切っ先で心臓を突き刺す。ただ、自分の気持ちは――自分は白波瀬にとっていらないものなのだということだけ、その痛みで理解した。打ちの
めされる。頭が真っ白になり――。
「……?」
引き戻すように抱きしめられた。
「それでも、わたしはきみが好きだ」
今度こそ、何を言われたのか、整司には本当にわからなかった。
喉の奥から押し出すように、苦しい声で白波瀬が言う。
「きみが好きだ」

89番目の駅 ―4―

2018-10-17
そんな出会いから、整司は月に数度のペースで白波瀬の家に通うようになった。
最初に泊めてもらった翌日の帰り際、
「また来てもいいですか」
整司がたずねると、白波瀬は「いいよ」と頷いた。
「整司の来たいときにいつでもおいで。でも、来る前に必ず電話してから来るんだよ」
その一言に、整司は少し身構えた。
「僕のことが嫌いだったら……社交辞令なら、そう言ってほしいです」
うつむき気味に言うと、白波瀬はちょっと首をかしげた。
「どうしてそんなことを言うの?」
「前にそう言われたからです」
整司は淡々と語って聞かせた。
大学に入ったばかりの頃、知人から一緒にコンパに行かないかと誘われた。その日は予定が入っていて断らざるをえなかったが、次の機会に誘ってほしいと言うと、相手は「もちろん」と頷いた。
「また声をかけるよ」
でも、三ヶ月が経っても、半年が経っても、彼は整司を誘わなかった。
後期の授業で彼に会ったとき、整司はどうして誘ってくれないのかと彼にたずねた。彼は決まり悪げな表情で言った。
「あんなの社交辞令だろ」
少し意地の悪い、あざけるような笑いとともに――。
黙って聞いていた白波瀬は、全部聞き終えると、慈しむように目を細めた。
「整は正直で誠実なんだね」
「……?」
よくわからない。褒められたんだろうか。
わからないけれど、白波瀬の声にもことばにも視線にも、不快なものは何もなかった。
白波瀬の目には、自分は「正直」で「誠実」に見えているのか。
そう思ったら、気持ちが軽くなり、うれしくてたまらなくなった。これまで自分に与えられる他人の評価といったら、「我が儘」だの「自己中心的」だの「変人」だのが大半だったから。
うれしかったので、「ありがとう」と言った。不思議と白波瀬の顔は見られなかった。
そんな整司に「ちょっと待ってて」と言い残し、白波瀬はタンスの引き出しから何かを取ってきた。
「電話してからおいでと言ったのは、きみが待ちぼうけしたらかわいそうだと思ったからだよ。でも、電話はもういい。代わりにこれをあげよう。わたしが留守だったら、これを使って」
手渡されたのは錆色の鍵。
そうして白波瀬の家の鍵は整司のものになった。
あんまりうれしかったから、整司は鍵にチェーンを通して首から提げた。白波瀬の家に行かない日も、毎日身に着けている。そして好きなときに白波瀬の家を訪れた。
白波瀬の家では、特別何かをするわけでもない。整司はたいてい数式について考える。
潮と古い家の匂い。海鳴りと、ときどき鉄橋を渡っていく列車の音。ミケさんのひそかな息づかい。白波瀬の家では、他の場所よりもほんの少し時間がゆっくり流れている。
整司が頭の中で数式をもてあそんでいるあいだ、白波瀬はそばで仕事をしたり、本を読んだりしていることもあれば、講義に行ったり、ふらりとどこかへ出かけてしまうこともあった。
必要以上にかまわれることはないけれど、受け入れられている。そう感じる。白波瀬のそばにいると、家族といるより、一人で過ごすより、呼吸がしやすいみたいな気がした。
桜が散り、新緑の上をさわやかな風が渡る頃になると、白波瀬は時折整司の勉強を見てくれるようになった。
白波瀬は地方の大学で数学を教えながら何冊もの研究書を出している、素数の分野では著名な数学者だった。大学の指導教官は、整司の言動にどこか引いているふしがあって、研究指導も熱心とはいえない。就職活動をしていないのだから、卒業後は院に進むしかないのだが、彼との相性の悪さから、いまいち積極的になれないでいた。けれども白波瀬と話していると、自分が数学が好きなのだということを実感させられる。
「しろさんといると、好きなものが増えます。しろさんが好きになりました。ミケさんも好きになりました。数学も前より好きになりました」
そう言ったら、白波瀬は完爾と頷いた。
「大学院に進んだらいい。なんならうちの院に来てもかまわないよ。きみが通っているところよりも、大学のレベルは少し下がってしまうけれど」
夏、書き上がった論文を見せると、白波瀬は満足そうに頷き、「これを一部もらってもいい?」とたずねた。
「ぜひ見せたい人がいるんだ」
白波瀬には、整司以外にも数学好きの友達がいるのだ。
羨ましいなと思い、ちょっとだけいやな気分になった。自分には白波瀬だけだ。なのに、白波瀬には自分以外にも親しい人間がいる。それがひどくつまらないことのように感じた。
少しでも白波瀬の気持ちが引けるのなら。彼が喜んでくれるのなら……。ただそれだけの気持ちで論文を渡した。
それがこんな結果になるなんて。
整司は両手で強く顔をこすった。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
「うちの院に来てもいい」なんて言ってくれたのに。
整司はそのつもりで、秋口に白波瀬の勤務先の大学の院試を受けた。合格通知ももらって、すっかりその気になっていたのに、アメリカなんて――どうして?
潮の匂いに包まれた、海鳴りと電車の音の聞こえる家。
八十九番目の駅には、整司が初めて好きになった、大切なひとがいる。
それがどれだけ整司の気持ちを支えてくれているか。どれだけ整司にとって重要なことか。どれだけ整司をとらえているか……。
白波瀬はわかってくれていると思っていたのに。

89番目の駅 ―3―

2018-10-10
どこからともなく潮の匂いがただよってくる家だった。
木の建具に、闇夜がゆがんで見えるガラス、色褪せてささくれ立った畳。炬燵には、ほっそりした三毛猫が一匹もぐりこんでいた。
「ねこ」
呟くと、台所から「ミケさんだよ」と返事がある。
すべらかな背に惹かれ、おっかなびっくり触れてみた。猫はぐにゃぐにゃしていてあんまり好きじゃない。でも、冷え切った体にミケさんのぬくもりはやさしくて、ほっとした。
「どうぞ」
台所から戻ってきた白波瀬が、湯飲みに熱い茶を注いでくれる。香ばしい匂いと湯気。台所からは出汁の匂いもする。
「今うどんを作ってる。うどんは嫌いじゃない?」
「はい」
湯飲みを片手にそろそろとミケさんの背中を撫でながら、整司は壁際一面の本棚を見上げた。
フェルマー。オイラー。フィボナッチ。
「しろさんは数学が好きですか」
どんぶりを両手に、台所から戻ってきた白波瀬が、「よくわかったね」と頷いた。
「大学で数学を教えているんだ」
「僕は大学で数学を勉強しています」
「ああ、そうなの? 何年生?」
「三年です」
「二十一か」
「しろさんは」
「いくつに見える?」
「わかりません」
「五十五だよ」
その瞬間、整司の脳裏に閃光がひらめいた。
食べかけのうどんを押しやり、床にあった新聞の束から裏の白いチラシを引っ張り出す。けれど、書くものがない。
「書くもの」
いらいらと言い放つと、白波瀬が目を丸くした。
「え? ……ああ。はい」
渡されたボールペンをひったくり、思いつくままがりがりと書きはじめる。
数字の飛沫。数列の波。どこまでも広がる美しい数式の世界。
思考の海を泳ぎ回るあいだ、整司は時間を忘れた。
やがて我に返ると、炬燵の角を挟んだ隣で、白波瀬が難しい顔をしてチラシの裏を眺めていた。
「……フィボナッチ数列に、素数は無限に存在するか?」
今まで書き散らしていた問題を言い当てられ、驚いた。
「そうです」
「すごいね、いいところまで証明できてると思うよ。どうしてここでやめてしまったの?」
「美しくないからです」
あるところまで書き連ねたら、自分の論理の冗長さが気になりだした。そうなると、もうだめだ。整司の集中力はとたんにぷっつり途切れてしまう。
整司の答えに白波瀬は少しほほ笑んで「そうか、残念だな」と頷いた。
「どこまで言えるか見てみたかったけど、仕方ないね」
たいていは理解してもらえない整司の理屈。でも、白波瀬は整司の気まぐれを責めたりしなかった。
目の前で小さな光がパチパチはじける。新しい数式を見つけたときみたいな眩しい感覚。
整司は思わず炬燵の上に身を乗り出した。
「しろさんは不思議な人です」
「そうかい? そうかな」
「しろさんと僕の年はフィボナッチ数です。しろさんが五十五、僕が二十一。僕は八十九が一番好きですが、五十五も好きです」
「そうか」
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
黄金比につらなる、美しい数列の、美しい数字の関係。
でも、それだけでなく、この人が好きだと整司は思った。
二十一年生きてきて初めて、他人を好きだと思った。