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掌編

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楽園を手作りしよう ――『楽園暮らしはどうですか?』SS

2017-08-28
朝霞がベッドにノートパソコンを持ち込むことについて、市川はあまりいい顔をしない。
つきあいだして間もない頃、朝霞は何度かベッドにパソコンを持ち込んだ。市川は、「ベッドでまで仕事なんて!」と言うが、なにも仕事をするためじゃない。
そもそも朝霞はオタク気質である。ご多分にもれず、スマートフォンやパソコンで何かを読んだり調べたり、SNSで仲間と語らったりするのが好きだ。SNSやネットニュース程度ならスマホですませてしまうのだが、動画や調べものになると小さなスマホの画面ではもの足りない。ついついパソコンをベッドに引きずり込んでしまう。
だが、市川とつきあいだしてからは、彼とベッドで過ごす時間も、かけがえなく心地いいと思うようになった。夏場だって、エアコンで冷やした部屋の中、ベッドでなんとなくくっついて、SNSを眺めたり、動画を見たり、そのうち興味を惹かれたことを調べたり……そのあいだに、彼と触れ合った素足をすり合わせてみたり、ふと悪戯心を起こして寝ている市川の脇腹をくすぐってみたり、起きているときにはできない自分からのキスをしたり、そのうち目を覚ました市川にキスされたり……。そういう、恋人とベッドでじゃれあって過ごす心地よさを知ってしまったら、なかなかベッドから出る気になれない。ので、つい、スマホやらパソコンやらをベッドに持ち込みたくなってしまう。本音を言えば、飲み食いもベッドですめばいいのにとさえ思っている。
でも市川は、ベッドの上で朝霞の意識が彼以外にそれるのが気に入らないらしかった。「ベッドは二人でいちゃいちゃするところだろ」というのが彼の言い分だ。「いちゃいちゃ」って。いい年した大人が口にする言葉じゃない。あきれつつも、彼の甘く整った顔に子供っぽい甘えた言い方は思いがけず似合っていて、ついつい赤面してしまった朝霞である。イケメンずるい。
そんなわけで、ここのところ、ベッドにパソコンを持ち込むのはやめていたのだが、今朝はどうしても我慢できなかった。起きるなり机に置いていたノートパソコンを取りに行き、まだシーツに体温が残るうちにベッドへ戻る。うつぶせになり、枕を胸の下に押し込んでパソコンを開いた。
「智行……?」
昨夜遅番だった市川が、眠そうに目をこすりながら名前を呼ぶ。
「すみません。もう少し寝ていてください」
彼を気遣って言ったつもりが、適当にあしらおうとしているように聞こえたらしい。市川は顔をしかめてあくびをしつつ、体を反転させて起き上がった。ぴったり体の側面を朝霞にくっつけて隣に並ぶ。ちゅっとこめかみにキスされた。
「昨夜はあんなにかわいかったのに……」
「パソコンいじってる俺はかわいくないですか?」
何気なくそうきくと、市川は一瞬目を丸くした。それから、ふわっと蕩けるように微笑する。
「智行がそんなこと言えるようになるなんてなぁ。おれの愛情が着実に実を結んでる感じ」
「……生意気になったとは思わないんですか?」
「俺の愛を疑ってもないってことだろ? おれの愛を信じ切って、その上にあぐらかいてるおまえは最っ高にかわいいよ。おれのほう向いてくれないのはつまらないけど」
こっち向いて、と頭を抱き寄せてキスをされる。たわいない焼きもちに、朝霞は「もう」と小さく笑った。
「で? 何調べてたんだ?」
市川がパソコン画面を覗き込んでくる。彼にも見やすいように体をずらしながら、朝霞は答えた。
「クラウドファンディングってどうやるのかと思って……」
「クラ……なんだって?」
「クラウドファンディング。要は、事業に賛同してくれる出資者を一般に募って、事業資金を集める手法です。目標額を達成したら、それを元手に事業を展開し、出資者には事業に関連する謝礼品で還元する……」
ハウツーページを見せながら説明すると、市川は「ふぅん」と首をかしげた。
「で、何をするのに、そんなに金が必要なんだ?」
よくぞきいてくれました、とばかりに、朝霞は市川を振り返った。
「白浪線の観光鉄道化です!」
今年三月で廃線になった白浪線の跡地は、一部の商業地や住宅地周辺を除いて、未だにほとんど買い手が付いていない。鉄道ファンに人気の高かった入江谷駅付近もその一部だ。白浪線と共に引退した一〇〇系車輌も会社の倉庫で眠っている。あれを買い取り、有志鉄道ファンによる保存・展示運転や運転手体験などができる観光鉄道に整備できたら、白浪線の風景も一〇〇系車輌も、一部ではあるが残すことができる。ついでに、不良債権扱いの土地も一部処分でき、かいでん的にもプラスになるはずだ。
「資金がネックなんですけど、事業自体は不可能ではないと思うんです。当然、社の協力は必要になりますが、クラウドファンディングは使っていないにしても、鉄道ファンによる保存・展示運転は、岡山の片上鉄道の例なんかもありますし、海外にもさまざまな例があるので……」
朝霞の勢いに、市川は最初あっけにとられたようだったが、やがて愉快そうに目を細めた。
「面白そうだな。でもそれ、ウチでやればいいんじゃないか?」
なにもクラウドファンディングなんてしなくても、と言う市川に、朝霞は首を横に振った。
「そんな余計な事業に回せる体力はウチの社にはありません」
「あー、やっぱり?」
「でも、逆に資金調達と事業運営の目処さえ立っていれば、話は聞いてもらえると思うんです。できれば、設備が荒れたり買い手が付いたりする前に企画書を出したいんですけど……」
以前から仕事の片手間に少しずつ調べてきて、残る問題は資金調達だけだった。突如天啓が下りてきたのは昨夜。市川を待つ片手間に眺めていたSNSの投稿から、クラウドファンディングの存在を思い出したのだ。そのすぐあとに市川がやってきて、調べものは途中になってしまったが、朝起きて思い出したらもう我慢できなかった。
「すみません。ベッドにパソコン持ち込むの、やめてたんですけど……」
少々気まずく視線を落とす。市川は筋張った脛で朝霞の脹ら脛をスリッと撫で、頬に軽くキスを寄越した。
「いいよ。智行が電車に夢中になって目をキラキラさせてるの、かわいいし。実行するなら、もちろんおれも協力する」
思わず「本当ですか!?」ととびついた。市川がふっと目を細める。
「入江谷っていったら、おれたちの思い出の場所だもんな」
「!」
思いがけないことを言われ、朝霞は目を見開いた。じわじわと頬が熱くなる。
半年前、波濤とどろく入江谷の駅で顔を合わせたのが、二人が親しくなるきっかけだった。あの雪の降る駅での出会いは、朝霞もはっきりと覚えている。
「それだけが理由じゃないですけど……。じゃあ、企画が通ったら、慎也さん、宣伝部長やってください。女性ファン、たくさん集めてくださいね」
冗談めかした朝霞の言葉に、市川は余裕綽々でにっこりと頷いた。
「智行のためならいくらでも」
もうひとつキスが落ちてくる。
職場も一緒。プライベートも一緒。でも、またひとつ、一緒にできることが見えてきて、最高にわくわくする。
再び入江谷の駅で、運転士姿の恋人を見られるかもしれないと想像し、朝霞は心から幸福にほほ笑んだ。
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賢者タイムがやってきました。――『運命の転機は三十歳でした。』SS

2017-01-26
「――……ッ」
荒く大きな呼吸をひとつ。多岐川の中から退いて、力尽きたように東元が覆い被さってくる。全身でその重みを受け止めることになり、多岐川は「うぇっ」とも「ぐぇっ」ともつかない濁音を喉の奥から押し出した。
「ちょっ……どけ、重い!」
「透」
肩で息をつきながら、東元はおかまいなしに多岐川を抱き締めてくる。多岐川の額に張り付いた髪を掻き上げ、まじまじと顔を覗き込む。
「起きてるな」
確認するように言われ、多岐川はにっと笑った。
「おかげさまで」
つきあいはじめて四ヵ月。幾度となくからだを重ねたが、多岐川がコトのあとまで意識を保っていたのは今回がはじめてだ。取り立てて乱暴にされているわけではないが、とにもかくにも一般的ではない東元の巨きさのせいで、一度始めたが最後、前後不覚のまま気をやってしまうのがいつものパターンである。
多岐川としては、べつにそれでもかまわない。多少男の矜持が傷つけられている気もするが、受け身に甘んじている時点で今更だ。
だが、いつも一人で取り残される東元のほうはさみしかったらしい。「今日は丁寧にする」と宣言し、実際そのとおりにされた。おかげで、初めて二人の「事後」というやつを体験している。
「透……」
薄明かりの中、相手の瞳に映る自分がはっきり見えるほど間近から顔を覗き込み、東元が唇を寄せてきた。思わずブッと噴き出してしまう。
「なに雰囲気出してんだ」
笑いながら、キスしようとする東元の口許を手でふさぎ、押し返した。
「とおる?」
多岐川の手に口を覆われたまま、東元は不満そうにもごもごと文句を言っている。多岐川は色気のない笑いを浮かべたまま、ぐいっと東元のからだを押しやった。
「いいかげん、おれの上からどけ。重い」
「……意識がないよりひどいな」
恨み言に、「うるさい」と一睨み。ぷいっと顔をそむけたが、なにしろ至近距離だ。顔が赤いのはばれているかもしれない。ちっと鋭く舌を打った。
(くっそ、なんだこれ。勘弁しろ)
恥ずかしい。とにかく気恥ずかしい。いつものように一度意識が途切れると、気分も多少リセットされていたのだが、意識があるばかりに思いがけず盛大な賢者タイムがやってきてしまった。
髪から足までありとあらゆる体液でぐっちゃぐちゃ、正面から抱きつかれて密着した肌はどこもかしこもいやらしくぬめるし、甘えるように擦りつけられる下肢からはあられもない水音が聞こえてくる。しかも、重い。硬い。やわらかくない。さっきまで男の象徴を突っ込まれていたのに今更すぎるが、改めて「男だな」と思う。多岐川を押し潰さんばかりにのしかかり、ぎゅうぎゅう抱き締めてきている相手は十二年来の腐れ縁の友人だという、この事実!
「……ホント何やってんだろうな、俺たち……」
「透?」
名前を呼ぶ東元の声色が変わった。ちょっと怒っている。まあ、無理もない。女だったら引っぱたかれているところだ。
「どうした。よくなかったか?」
「いや、よかったけど」
ことさら丁寧に、じれったいほどやさしくされるセックスは、いつも以上に多岐川の羞恥と興奮を煽った。
そもそも情熱と体力にあかしてがっつくような年ではない。にもかかわらず、じわじわと高められる情欲におぼれ、「早く」と急かしたのも多岐川なら、「奥まで来いよ」とねだったのも、「動いて」と泣いたのも、最終的に自分から腰を振ってあんあん喘いだのも多岐川である。
思い返すにつけ、よけいに賢者モードがひどくなり、多岐川は頭を抱えた。
(なんか、思ってた以上にみっともねぇな、おれ!?)
「後悔してるのか?」
東元の声がいっそう低くなる。ひやりとするような口調に身を案じた多岐川は、なだめるように彼の背を叩いた。「ねぇよ」と答える。
「けど、十二年も友達やってた相手に何やってんだろうって、我にかえる瞬間ってないか?」
「ないな」
東元はあっさりと否定した。
「むしろ、十二年も何もなくても一緒にいられるほどだったんだ。友情から地続きに、こういうことをしたいと思うようになっても不思議はないと思う」
「あー……、そうか」
そういえばそうだった。東元のほうは、ほぼ最初から多岐川が恋愛対象に入っていたのだ。なら、今多岐川が抱いてるような気恥ずかしさというか、いたたまれなさのようなものは、なくて当然かもしれない。
(けど……)
それはそれでさみしいような気分になるのは、勝手すぎるだろうか。
「……なあ。おまえ、おれのこと、友達だと思ってた?」
つい感傷的な気分になり、そうきいた。彼はけげんそうな表情になった。
「今でも思ってるぞ?」
「あ、そう?」
「恋人になったからといって、友人をやめなくてはいけないわけじゃないだろ」
「それは、まあ」
「恋人の透はかわいくて抱きたくなるし、友人の透を抱くのは興奮する」
サディスティックな顔を覗かせて、東元は色っぽく笑った。
「透はどうなんだ? 本当に後悔はしていないか?」
もう一度きかれる。「してないって」と即答した。
「けど、する気にならないから、すげぇなとは思ってるぜ。若干」
「すごい?」
「友達のおまえとこういうことしたいってすごくないか? おれ、今でも自分でびっくりするんだけど。小山とかとエッチしたいとか、絶対思わねぇもん」
多岐川がそう言うと、東元は一瞬おし黙った。かと思うと、ひどくしあわせそうに口角を上げ、にっこりと笑う。
「……つまり、それだけ俺に惚れてるということだな?」
向き合った彼が腰を揺すると、ごりっと下肢に硬いものが触れる。
ん? と多岐川は首をかしげ、すぐにそれが何か、思い至った。
「おまっ……、あっ、ちょっ、何して……っ!?」
「そこまで言われたら、期待に応じないわけにはいかないだろ」
「違う! ちがう……って、あっ、クソ、待てって……っ」
多岐川の腰をがっちり抱え直した東元が、腰を深く沈めてくる。
自分のうかつさを脳内で詰りながら、多岐川は今度こそ正気を失う快感に巻き込まれていった。

天国はまだ遠く(1) ――『天国に手が届く』etc. SS

2016-08-11
耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣に横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない、はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を飲んだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来た。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めたのだ。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

(つづく)

祇園宵歌  ――『京恋路上ル下ル』SS

2016-07-31
祇園の町は、なんとなく異世界だ。
舞妓、芸妓、丹塗りの壁。「一見さんお断り」がまだ伝説になりきっていない町に、学生の自分は場違いだ。地元から遊びに来る友人たちを案内するたび、颯馬はそう感じていた。しらけた雰囲気の昼間ならまだしも、夕暮れの後はとくに。
その認識を颯馬は今夜改めた。夜の祇園はまったくの異世界だ。学生がいていい場所じゃない。
「ちょっと待って、ここ?」
一週間ほどぐずついた梅雨空から久しぶりに青空が覗いたその夕べ、祇園甲部の路地の奥、どこからか三味線の音が聞こえてくる小さな町屋を、颯馬は当惑気味に見上げた。
傍らに立った伊織がゆるりと首を傾げる。何にそんなに臆するのかと言わんばかりの表情だが、颯馬はかなり本気で困惑していた。
目の前の町屋は――いや、「町屋」と呼ぶのが正しいのかもよくわからないが、とにかくその建物は、颯馬の認識が間違っていなければいわゆる「お茶屋」のように見えた。
白壁に板塀、二階の窓には簾が掛かり、瓦屋根の乗った門に竹格子の引き戸がはめ込まれている。その奥には、「はな江」と白く染め抜かれた花紫の暖簾が、提灯の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。よくよく見れば、門の軒先の外灯にも小さく「はな江」と墨書がある。
「……伊織さん、俺、あんまり金持ってないんだけど……」
男として恋人にはあまり言いたくないことだが、言わずにはいられなかった。こんなところで見栄を張ってもしかたがない。颯馬はごく普通の大学生だ。今日だって大学から帰ってきたところを、「知り合いのとこつき合うて」と連れ出されての今だった。いや、「ばあさんの知り合いが、どうしてもおまえに会いたいて言わはんねん」とは言われた。「もしかしたら泊まりになるかも」とも言われた気がする。伊織の亡き祖母はつ江が、祇園の芸妓だったことも知ってはいる。だが、まさか、こんなところに連れてこられるとは思ってもみない。
珍しく尻込みする颯馬を横目に、伊織はおかしそうに深紫の和服の肩を揺らし・た。
「伊織さん」
笑いごとじゃないよと眉尻を下げる。彼は目を細めてきれいに微笑んで見せた。
「かまへんさかい、そのまんま、いつものまんま、ぼくの目ぇ見てにこにこしとり」
そう言って、格子戸を引き開け、暖簾の奥に向かって、「ごめんください」と声をかける。奥から「へえ」と応えがあった。こうなったら颯馬も腹をくくるしかない。
奥から現れたのは、白髪を上品に結い、藤色の和服を身に着けた女性だった。見事な白髪なので高齢なのだと思うが、背筋はしゃんと伸び、往年の美貌を彷彿させる顔立ちも相俟って、さっぱり年齢不詳だ。
彼女は伊織の姿に目を細めると、彼の京訛りよりもさらにやんわりとした、花街独特の抑揚で言った。
「まあまあ、伊織ちゃん、ようお越しやす、お越しやす」
「ご無沙汰してます、はな江さん」
「ほんまやわあ、寂しかってんえ。よう来とくれやしたなぁ」
「遅ぉなってすいません」
祖父の留蔵に見せるような、やさしげな表情で伊織は微笑む。その腕のあたりを、しなびた手で何度かさすり、彼女は道を空けるように立ち上がった。
「まあ、どうぞおあがりやす」
三和土に草履を脱いで上がりながら、伊織が「お言葉に甘えます」と答える。二人が通されたのは六畳に床の間の付いた簡素な和室だった。外観も古そうだったが、内部も相当年期が入っている。床が若干傾いているように感じるのは気のせいではないだろう。歩くと、ところどころ畳が沈む。
座卓の一辺に並んで座ったタイミングで、くん、とシャツの袖先を伊織に引かれた。はっとして、提げてきた紙袋から取り出した箱を差し出す。
「あの、これ、よかったら」
「まあま、金平糖。おおきに。ほんま、おおきに」
うれしそうに受け取り、はな江は二人にお茶を淹れてくれた。茶托に乗せて出されたお茶を「いただきます」と口に運ぶ。伊織の淹れるそれほどではないが――と思うのは、惚れた欲目もあるのだろう――ふくよかな香りが口に広がった。
「美味しいです」
「まあ、おおきに」
颯馬の言葉に大げさなほどうれしそうに笑い、それからはな江は、ふふふと含む笑みに表情を変えた。
「伊織ちゃん、紹介してくれへんの」
伊織はやはりやさしげな風情で笑い、颯馬に視線を流した。
「颯馬、言います。颯馬、こちらはばあさんの妹さん……言うてもわからんかな?」
「?」
妹と言うなら血の繋がった姉妹ということになるが、そういうニュアンスではなさそうだ。軽く首をかしげると、伊織はふっと微笑んだ。
「まあ、簡単に言うたら後輩の芸妓さんやった人で、はな江さん。今は芸妓やめて、この旅館の女将したはる」
その説明で納得がいった。
夜の町で生きる人たちの独特なつながりは、颯馬にはまったく縁がない。けれども、伊織にとっては親戚も同然の人なのだということはわかった。
「里見颯馬です。よろしくお願いします」
改めて頭を下げてから、ふと気になったことを口にした。
「ここ、旅館なんですか?」
「以前はお茶屋やったんどす。四十年ほど前にお茶屋はやめはって、今はわたしが旅館としてやらせてもろてます」
「そうなんですね。実は俺、今日ここに来るの知らなくて。表でお茶屋さんだと思って、すっごい緊張してたんです」
素直に吐露すると、はな江はほろほろと上品に笑った。伊織に視線を移して言う。
「こんなかわいい子ぉたぶらかして、伊織ちゃんたら悪い子ぉやなぁ」
「!?」
思わず口に含んだ茶を噴き出しそうになった。
(なに、この人、俺たちのこと知ってるのか!?)
慌てて視線を向けるが、伊織は涼しい顔で「人聞きが悪いですよ」と言い返す。
「たぶらかされたんはぼくのほうです」
「伊織さん!」
「あらま、ほんまに?」
面白そうに覗き込まれ、颯馬はしどろもどろに答えた。
「えっ? ええと、……はい」
「まあ、かわいい」
口調の端に、長年花街で生きてきた女性の色と凄みがちらりと覗く。颯馬など、この人の前では本当に子どもに過ぎないのだろう。
はな江が上機嫌に笑って席を立つ。いたずらな笑みをひとつ。
「仕出しのお願いしてきまひょ。今日はお客さん二組さんだけやさかい、あとでぎょうさんお話聞かせとくれやっしゃ」
黄ばんだ襖が音もなく閉じた。


はな江を交えての夕食は、近所の仕出し屋からの料理と酒を囲み、二時間ほどでお開きになった。
玄関から「ごめんください」と呼ぶ声がする。今夜の客が着いたらしい。時刻は十時を回っているが、「はな江」では珍しいことではないようだった。ここは祇園、夜の遊びは客の裁量。「はな江」は寝床と朝食だけを提供する、「片泊まり」の宿なのだ。
はな江が「はーい」と応えを返す。
「そしたら、ぼくらもそろそろ」
そう言って腰を上げかけた伊織を、はな江は立ち上がりつつ、「そんなこと言わんと」と両手で制した。
「お酒もぎょうさん上がらはったし、泊まっとくれやす。明日の朝ごはんはわたしが作るさかいに、なあ?」
「はあ……」
伊織は颯馬に視線を寄越した。「どうする?」と目でたずねてくるから、少しだけ首を傾げて微笑み、頷いた。「伊織さんのいいようにするよ」――声にせずとも、言いたいことはちゃんと伝わる。
「そしたら、お世話んなります」
そんなわけで、二人は「はな江」に泊まっていくことになった。
小さな浴場で湯をもらい、備え付けられていた浴衣に着替えて戻ってくると、部屋からはぽろぽろと三味線の音がこぼれていた。最初は部屋を間違えたかと思ったが、「ききょう」の間で間違いない。
部屋の襖をそうっと開け、中を覗くと、坪庭に面した縁側で伊織が三味線を爪弾いていた。雲間から射し込む月の光が、青白く伊織の輪郭を浮かび上がらせている。
不思議な光景だった。うつくしい絵を目の前にしたときのように、ずっと見つめていたいような、それでいて彼の視線をこちらに向かせたい焦燥に駆られるような――。
「……伊織さん」
衝動に正直に、颯馬は伊織の名を呼んだ。籐椅子に掛けた彼の足元に寄る。伊織の手元からぽろんと音がこぼれた。浴衣の膝に顔を埋め、颯馬はもう一度「伊織さん」と呼んだ。
「どないしたん?」
ほんの少し甘やかす声音に、「うん」と答えて言葉を探す。
「いちゃいちゃしたくなった」
顔を上げないまま、くぐもった声で口にすると、案の定伊織に笑われた。
「颯馬?」
声音が更に甘やかす色になる。頭上で身じろぎの音がして、ほっそりとした指が颯馬の髪を梳いた。
「はな江さんに俺のこと話したの?」
「うん……?」
笑みを含んだ相づちが先をうながす。
「伊織さんが、俺のことそういうふうに人に紹介してくれたの、はじめてだ。……うれしい」
「ぼくから言うたわけとちゃうよ。あの人がどっからか噂を聞いてきて、おまえに会いたいて言わはった」
「それでも」
うれしい、と、腰に腕を回して抱きしめる。伊織はくすくすと笑うばかりだ。
「伊織さん……」
自分の頭を撫でている手を取り、指先に口づけ、舐めた。伊織のからだは爪の色かたちまでうつくしい。上目遣いにうかがうと、伊織はやんわりと笑んでこちらを見た。そこに拒絶がないことをよくよく確かめてから、その細腰を抱え上げる。
「わっ、こら、颯馬!」
伊織の頭を鴨居にぶつけないよう注意を払って布団へ運んだ。上掛けを剥がし、敷き布団の上に彼を横たえる。出先だからとこらえていた抑制が、まったく利かなくなっていた。颯馬は伊織が好きで好きで、いつでも「好きだ」と伝えたくてしかたない。そんな相手に恋人として受け入れられている。今夜はそれをこんなかたちで知ることができた。うれしくて――触れたくてたまらない。
「ね、伊織さん、いい……?」
組み敷いた恋人を上から見つめる。懇願する声音に、伊織はかすかに目を見開いた。かと思うと、花が咲うような笑みを浮かべる。
「ええよ、」
ひそやかな声が颯馬を誘った。
「颯馬のええように抱いとくれやす」


翌日の朝食は、日もとうに昇った八時過ぎ、ほとほとと襖を叩く音と一緒にやってきた。旅館にしては遅い朝食だ。
「おはようさんどす。よう眠れましたやろか?」
昨夜の行為に気付いているのかいないのか、うかがわせることすらしない笑みで、はな江は朝食の膳を整えた。白米に漬物、野菜の炊き合わせと、二色の蒟蒻そうめんに味噌汁。目にも涼やかな京都の朝ご飯だ。
「おかげさまで」
昨夜の乱れた姿など一片も残さない涼しい顔で、伊織は「いただきます」と手を合わせた。
一人どぎまぎしている自分がどうにも子どもっぽく感じる。張り合ったところで、颯馬がこの二人に敵うわけもないのだが。
もくもくと朝食を口に運んでいると、不意に、ほほほとはな江が笑い出した。
つい視線を向けると、「いえねぇ」とおかしそうに口元に手をあてる。
「はつ江姉さんのかわいいお孫さんやさかい、わたしもこないしてかわいがらしてもろてますけど、こんなかわいい伊織ちゃん見たんははじめてやと思て」
「はな江さん」
咎めるような伊織の声にも頓着せず、はな江はいたずらめいた顔で颯馬を見た。
「今まで何度も、ええ人できたら連れておいで、言うても、一度も連れて来てくれたことなんかあらしまへんのえ。それが、あんたさんのときは、ちょぉっときいただけで……」
「はな江さん」
いささか語気を強めて伊織が遮った。顔をしかめているものの、目尻の下がほんのり赤い。はな江はますますおかしそうに笑い、「よかったわねぇ」としみじみと言う。
「伊織ちゃんにええ人ができて、わたしも安心どす。ちょぉっと素直やあらしまへんけど、颯馬はん、よろしゅうお頼申します」
老齢の美女に頭を下げられ、颯馬は慌てて頷いた。
「もちろんです。俺、絶対、伊織さんをしあわせにしますから」
伊織はとうとう箸を置き、両手で顔を覆ってしまった。ほろほろとはな江の笑いが響く。
「そしたら、ごゆっくり」
はな江が部屋を出て行ったあと、そっと座卓を回り込んで声をかける。
「伊織さん」
手にかけた手は振り払われてしまったが、覗いた耳の先が真っ赤だ。
颯馬はその耳の先に、ちゅっと触れるキスを落とした。誓いのキスの代わりとして。

クリスマスには素敵なダンスを ――『王様お手をどうぞ』SS

2015-12-26
生まれてこのかた二十年、江神暁範は宗教というものを身近に感じたことがなかった。元大名家の江神家には、東京と国元であった地方、二つの菩提寺があり、それぞれにつきあいも深い。が、江神自身はとくに寺や仏教に思い入れがあるわけでもなかった。いずれ死んだらあの寺の世話になるのだろうという程度だ。そのあたりの感覚は、寺とつきあいのある一般家庭と変わらないだろうと自分では思っている。
そんなわけで、恋人の言葉は青天の霹靂とでも言うべき衝撃だった。
「ごめん、クリスマスは二十四日も二十五日も教会に行くんだ」
江神の大切な恋人は、フランス人ハーフのキリスト教徒だった。


「ホントごめん。そういえば、日本のクリスマスってそういうイベントだったね」
杏里が困ったように頭を掻いている。江神は極力感情を面に出さぬよう、ポーカーフェイスを装った。逆に言えば、意識しなければポーカーフェイスでいられないくらい動揺していたということだ。
まず頭に浮かんだのは、「キリスト教では同性愛は禁忌ではないのか」という疑問だった。ついたずねそうになったが、すんでのところで踏みとどまる。教義上はどうあれ、杏里が自らの意思で江神の恋人になったのは事実だ。彼の中ではきちんと折り合いが付いているのだろう。ならば、よく知りもしない江神が口を出すことではない。
次に浮かんだのは落胆だった。どうやら自分で思っていた以上に、人生初の、「恋人と過ごすクリスマス」を心待ちにしていたらしい。だが、幼稚な期待と勝手な失望で、杏里を煩わせるのは本望ではなかった。信仰をもつ人々にとって、それが個人のアイデンティティに深く根ざしたものであることは、知識の上では理解している。大人としてどうふるまうべきかなど、考えなくてもわかることだった。
「それなら、二十三日は?」
「ごめん、うちの教室のダンスパーティーがある」
「……その前の日曜は」
「その日は教会で子どもたちのクリスマスページェントの手伝いが……」
思わず黙り込むと、杏里は「ごめん」と申し訳なさそうに目を伏せた。
「かまわない。クリスマスでなくても、いつでも会える」
これだけ予定をきいておきながら、我ながらしらじらしいことこの上ない。きっと杏里にも、強がりにしか聞こえないだろう。だが、それ以外にどう言えばよかったというのだ。
案の定、杏里は江神の目をじっと覗き込んできた。宝石のようにきらめく双眸は魅力的だが、実はやっかいなことも知っている。杏里は人の感情の機微を読み取ることに長けている。絵本の王子様のような外見やほがらかな笑顔、闊達な物言い、やわらかな物腰などから、一見駆け引きをしない性格のように見えるが、その実、場の空気やその場の人間関係などを驚くほどよく観察し、ふるまい方を適確に判断している。
江神のほうはというと、杏里とつきあうようになってから、感情的になることが増えた。面に出すかどうかは別として、こと杏里に関わるとなると、大きく感情が揺さぶられる。もはや地顔になってしまっているポーカーフェイスも、杏里相手にはてんで役に立っていない気がした。どうにも素直になれない性分はよくよく自覚しているので、このくらいでちょうどいいのかもしれないとも思うが、杏里にはそんな卑小な考えさえ、見抜かれているのではないかと感じることがあった。たとえ気付いていたとしても、聡い恋人はそんなことはおくびにも出さないだろうが。
江神の目からどんな感情を読み取ったのか、杏里はもう一度「ごめん」と口にした。
「代わりにっていうわけじゃないけど、もし時間があるようなら、二十三日の昼から教室のダンスパーティーに来ない? って言っても、おれはホストだからずっと一緒にはいられないし、パーティーもごく庶民のお楽しみ会みたいなもんなんだけどさ」
「……しかし、俺は部外者だろう」
「大丈夫。きみ、一応、大学の社交ダンス部では、おれたちの教え子だから」
パチリとウィンクをひとつ。杏里は企みを思いついた子どもみたいな顔で笑った。
「パーティーは午後五時でお開きなんだ。そのあと、二十四日の朝まで日本式のクリスマスを教えてくれよ」


パーティー当日、江神は私用で一時間ほど遅れて行った。杏里たちの教室を訪れるのはこれが初めてだ。広々とした板張りのスタジオには、大きなクリスマスツリーが一本。天井や壁も華やかに飾り付けられている。スタジオの一方の端、四分の一ほどにはテーブルが置かれ、ケータリングや生徒の持ち寄りとおぼしき食事が立食形式でふるまわれていた。参加者は老若男女合わせて四十人くらいだろう。生徒たちは思い思いの服装で踊り、食べものや飲みものを手に談笑している。洋画などで見かける、「ホームパーティー」の光景だった。
さて、受付は……と視線を巡らせたところで、
「江神!」
ダンスフロアになっているほうから、杏里が人のあいだを抜けてきた。だが、少々ようすがおかしい。普通なら「いらっしゃい」、「お招きありがとう」といったやりとりがあるはずだが、杏里は目の前まで来るなり、「なんだよ、あのシャンパンの山!」と叫んだ。頬も眸も上気しているが、今まで踊っていたせいだけではなさそうだ。先に届けさせたことを怒っているのか、それとも、シャンパンだけでは足りなかったか。一応、子ども用には葡萄ジュースも届けさせたはずなのだが。
とりあえず、先に思いついた理由について釈明した。
「持ち寄りパーティーとのことだったが、遅刻するので届けさせた、何か不手際があっただろうか」
「いや、ないけど。そういうことじゃなくてね」
「ワインやビールのほうがよかったか?」
「そうじゃなくて……」
何事か続けようとし、杏里は思い直したように言葉を切り、苦笑した。
「ごめん、おれが言い忘れてた。持ち寄りって言っても手作りOK、買う場合は五百円までなんだ。きみのはそれどころじゃないだろ? 後で払うよ」
(なるほど)
どうやら自分は意図せず、ホストの面子を潰してしまったらしい。ゆゆしき事態だ。とっさに貼り付けたポーカーフェイスの下で、江神はひそかに動揺した。
社交における相手の立て方は身に着けており、「江神」の家に関わることではまず失敗しないが、自分のやり方が「世間一般」の枠からやや外れている自覚はある。杏里たちのやり方に合わせられなかったのだと気付いた。
「それは気がつかずに申し訳ない。だが、支払いは無用だ。詫び代わりに受け取ってくれ」
「意味がわか……いや、それじゃ、きみからだけもらい過ぎだって」
「なら、おまえへのクリスマスプレゼントということでどうだ?」
無論、正式なプレゼントはきちんと用意してあるが、ひとつくらい増えても問題ないだろう。
杏里は一瞬ぽかんと惚けたような顔になったが、すぐにプッと噴き出した。
「わかった。ありがたくいただくことにする。びっくりしたけど、届いたときは皆すごく盛り上がったんだ。ありがとう」
そう言ってから、江神の背に腕を回し、「いらっしゃい」とハグをする。頬を寄せ合う、親愛と歓迎のハグ。日本人には馴染みのないそれがあまりにも自然で、彼が育ってきた文化が垣間見える。
それから杏里はフロアを振り返り、音楽の合間に声を張った。
「皆さん、ご紹介します。修学院大学社交ダンス部の江神暁範さん。そこのシャンパンと葡萄ジュースのスポンサーです。拍手!」
わっとスタジオ中から拍手が湧いた。


杏里はこの教室の王子様らしい。
そう悟るまで、長い時間はかからなかった。
「放ったらかしてごめん。楽しんでもらえてる?」
知人の少ない江神に気を遣い、声をかけにきてはくれるが、そうしている間にもひっきりなしに女生から声がかかる。三歳女児から教室最年長とおぼしきご婦人まで、まんべんなく。
「先生、わたしと踊ってください」
今も小学生の女の子が、顔を真っ赤にして頼みにきた。
「もちろんだよ」
目線で「また後で」と江神に告げ、彼女の手を取ってフロアへ出て行く背中を見守る。ホストとしての杏里の役割は理解しているので、江神も視線だけで頷いた。
今まで競技会でのようすはたびたび見てきたが、このスタジオでダンス教師をしている姿を見るのは初めてだ。会場の女性たちに失礼のない程度に、自分もダンスの相手を務めながら、江神は杏里を目で追った。
「一曲踊ってくださる?」
声をかけられ、振り返ると、璃々が立っていた。杏里に気を取られすぎて、つい壁の染みになっていたらしい。
彼女の手を取り、フロアに出ると、向こうで年配のご婦人の手を取った杏里が目を瞬かせてこちらを見た。だが、その視線も、相手の女性に話しかけられ、すぐに逸れていってしまう。
「そんなに怖い顔をしないで。さっきから、江神さんと踊りたい女性が誘えなくてそわそわしてるんです」
音楽に合わせてステップを踏みながら璃々が囁いた。そんなに睨んでいただろうか。今日は失敗ばかりだ。「失礼」と返す。璃々は少し苦笑したようだった。
「教室のパーティーでは、杏里は女性全員と踊るって決まりごとみたいなものなんです。今日はとくに女性の生徒さんへのクリスマスプレゼントみたいなものだから……。わたしは、きっと退屈させてしまうから、デートだけにしたらって言ったんですよ。でも、きっとあなたのことを自慢したかったんだと思います」
そう言って、璃々はひそかに耳打ちした。
「ねえ。杏里を驚かせたくはないですか?」
「驚かせる?」
「そう」
くすくすと悪戯っぽく笑って、璃々がそっと計画を打ち明ける。その内容に驚いたが、最終的には頷いた。他人と踊る杏里ばかり見せつけられて、いい加減、ここにいる人々に杏里は誰のものか知らしめたい欲求に勝てなかったのだ。
「じゃあ、そういうことで」
曲が終わり、璃々は共犯者の笑みで去っていく。
一時間もたたないうちに、その時はやってきた。
「皆さん、次の曲で最後になります。ラストダンスの相手をお選びください」
マリーの声で、フロアがざわめく。江神は迷わず、杏里の前に立った。
「お相手いただけませんか」
そう言って、手を差し出す。杏里は目を丸くして、「ちょっと……」と顔をしかめた。パーティーでの、男性同士のダンスはマナー違反だ。会場の女性に魅力がないという意味にとられかねない。けれども、今日は教室主宰の気軽なパーティー。会場の大人たちはシャンパンとダンスでほろ酔いになり、子どもたちは飽き気味だ。杏里は女性たちと一通り踊り終え、ラストダンスは璃々と踊るのが慣例だと聞いた。その璃々が、飲食スペースでグラスを手にほほ笑む。
「シャンパンが美味しすぎて酔っ払っちゃったの。踊れそうにないんだけど、誰かとだけ二回踊るのも不公平でしょ。江神さんと踊ったら?」
「璃々ちゃん」
二人の企みに気付いたのだろう。杏里は、困ったような、照れたような、少しだけ責めるような目で二人を交互に見たが、最期には苦笑して江神の手を取った。周囲の大人たちがくすくすと笑う。場の雰囲気をこわさずにすんだようでホッとした。
ゆったりとしたワルツが始まる。杏里の手を取り、ステップを踏み出す。女性のステップを踏みながら、杏里が囁いた。
「ごめん。結局、ほとんど相手できなくて……」
「いや、またおまえの新しい一面を知ることができた」
周りで教え子たちが踊っている状況を気にしたのか、杏里が少し咎めるような視線を寄越した。けれどもそれもすぐに苦笑に溶ける。
「初めてのクリスマスなのに、ごめん」
「いや、おれも年末年始は自由にならないからな」
杏里たちが家庭と教会でクリスマスを過ごすように、江神も年始には家での行事に出席しなくてはならない。世間一般のカップルとは少し違うかもしれないが、男同士でつきあっていて、そんなことは今更だ。こんなふうに、互いの家庭の文化を知ることもまた、杏里が言うところの「ステディな『おつきあい』の醍醐味」だろう。もちろん、恋人として満たされていることが大前提だが。
クリスマス前の夕暮れどき、外は冷たいしぐれ雨だ。一面の大きなガラス窓に、灯りだした街のあかりが滲んでいる。
「ダンスのあとは、おれの自由にしていいんだろう?」
耳元で囁くと、ストロベリーブロンドから覗く耳朶が赤く染まった。
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