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天国はまだ遠く ――『天国に手が届く』SS

耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣で横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない。はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を呑むんだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来たのだ。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めた。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

  *

小田切叶のものと見られる遺品が見つかった。
その知らせは、ある秋の日、突然にやってきた。
アラスカ、デナリの南東約二十キロの位置に、「ブロークントゥース」と呼ばれる山塊がある。ムース・トゥースを中心に、六つの山頂をつなぐ、全長八キロにも及ぶ岩の壁だ。その北壁を冬季単独登攀中、小田切叶は消息を絶った。もう十三年前のことだ。以来、彼自身も、彼の遺品も、吹雪の向こうから帰ってきたものは何一つない。
その叶のものと見られるザックが、オーストリアの登山隊によって偶然発見された。遭難当時、滑落地点とされた場所から、数百メートルもずれた岩場だ。周囲に遺体らしきものはなく、半ば氷漬けになっていたザックの一部しか回収できなかったそうだが、現地にはまだ他にも遺留品があるらしい。
小田切は、その電話を戸隠の山から帰る車内で受けた。ハンズフリー通話のため、車内に響く相手の声を、佐和もまた聞いていた。
小田切は動じなかった。終始落ち着いて冷静に受け答えする横顔に、佐和は彼の覚悟を見た気がした。おそらく彼は、叶がいなくなったときからずっと、こんな電話が来るときのことを繰り返し考えては、覚悟を塗り重ね、応答をシミュレートしてきたに違いなかった。厚く塗り固められた覚悟のおかげで事故を起こすこともなかったが、大切な人の死に関わることを、一ミリの動揺もなく聞く彼の姿には、佐和のほうが泣きたくなった。
そうやって、ガチガチに覚悟を固めておかなければ耐えられないほど、小田切にとって叶は大切な人だった。幼い彼に家族のぬくもりを与えてくれた叔父で、心を預けた山の師匠で、初めてザイルといのちを預けたパートナー。佐和を小田切のところまで導いてくれたのも、他ならぬ叶だ。最期まで一人で山に挑み続けた人だったが、小田切のことを気にかけ、大切にしていたのも本当だった。
今まで、叶はもう帰ってこないのだとわかっていながらも、どこかで、彼が世界の山を歩き続けているような気がしていた。だが、遺留品が見つかったことで――もしかしたら、遺体も見つかるかもしれない可能性が出てきたことで、彼の死はよりはっきりとした輪郭をもち、現実として小田切の目の前に突きつけられようとしている。
動揺を必死に押さえ込み、佐和はハンドルを握る彼の横顔をひたと見つめた。脳裡に、あの夏の槍のうつくしく清澄な夜明けがよみがえった。
――なぁ、佐和。いつか、一緒にアラスカに行ってくれないか。
小田切の言葉に、天に手をかざしながら、佐和は笑って答えたのだった。
――アラスカでも、ヒマラヤでも。いつか天国にだって一緒に行くよ。
あの約束を、果たすときが今、やってきたのだ。
「小田切、行こう」
そう佐和が言ったとき、小田切は小さく目を瞠った。視線は前方から離さなかったが、見えない手で佐和の存在を探るような、抱き締めたいような気配があった。
泣きそうにも見える顔で小さくほほ笑み、小田切は頷いた。
「ああ、行こう」
あの遠い夏の穂高のようだった。


それから一年近くの時間をかけて、二人は少しずつ準備を進めた。
ブロークントゥースは、山岳登攀をする人間には知られた山でも、デナリほど知名度が高い山でもなければ、ルートもそれほど整っていない。アンカレッジ経由でデナリの玄関口、タルキートナへ。そこからさらにセスナ機に乗り、カヒルトナ氷河へ。広大な氷河から見て、デナリと真反対にそびえるのがブロークントゥースだ。全行程三週間の旅を計画するのは、社会人二人にとって容易ではなかった。それが、彼と約束を交わして今まで七年、その約束が果たされなかった最大の理由でもある。
アウトドアメーカー勤務の佐和は、自社製品の耐久実験を兼ねることを条件に、長期休暇と金銭的補助をもぎ取った。小田切は、勤続十年のリフレッシュ休暇をほとんどすべて注ぎ込む。もう三十代半ば。体力と経験、技術を総合的に考えて、今が一番充実している。なんとしても、この夏、叶に会いにいくのだ。二人とも多少の無理は押し通した。
だが、そうやって、社会の枠の中で無理を通す困難を痛感したからかもしれない。
「いっそプロの登山家になっちまえばいいのに」
出発前の壮行会でかけられた一言に、小田切の心が大きく揺れたのを、たぶん、佐和だけが感じ取っていた。


叶の甥、敬介が、叶の遺品を回収にアラスカへ行く。
その噂は、かつて叶と交流の深かった人から人へ、口伝てに広まって、出発の半年前には、「一度あいさつに」という連絡が引きも切らず入ってくるようになった。
仕事では営業などしているが、小田切は元々、人付き合いに積極的なタイプではない。文字どおり閉口する彼を見るに見かね、佐和は提案した。
「いっそ、まとめてあいさつしたら? 壮行会……は、自分たちで開くもんじゃないから、お別れ会?」
それを聞いていた、クライミングジムオーナーの内藤が、「『お別れ会』じゃ縁起が悪い」と言って、壮行会の主催を買って出てくれた。山岳関係者が多い都合上、馴染みが深く集まりやすい、楡生高原のプチホテルを貸し切っての食事会だ。
当日は、叶と交流のあった人たちに加え、小田切や佐和の個人的な友人、知人、果ては佐和の両親まで駆けつけてくれた。
定年退職して、いざ山に登るぞと息巻いている父はともかく、母は三十半ばまで山に明け暮れ、とうとう海外の山に登ると言い出した佐和を危ぶんでの出席だ。「登山に便利だから」というだけの理由で、自宅に居候までさせてもらっている小田切に、せめて直接あいさつがしたいと言うものだから、何を言い出すかと思っていたが、当日はなごやかに言葉を交わし、気付いたらすっかり小田切にほだされていた。「陰のある、折り目正しい、控え目な」小田切に、心を掴まれてしまったらしい。「あんたもせめて小田切くんくらいデリカシーがあればねぇ」と言われ、佐和は苦笑するしかなかった。
なごやかに流れていく時間の中で、会場となったホテルオーナーの渡邊と話していたときだ。日程の確保に苦労したと語る佐和に、叶の登山仲間だったという男性が口を挟んだ。
「そんなまどろっこしいことしなくても、いっそプロの登山家になっちまえばいいのに。敬介、本当に、プロにはならないのか?」
「――」
一瞬、佐和は絶句した。ぬくぬくとくつろいでいたところへ、頭から冷や水をかけられた気分だった。
今まで何度も似たようなことは言われてきた。自分がいるところでもそうなのだから、いない場所ならもっとだろう。だが、何度聞いたところで、慣れるというものでもない。
どんな難ルートを登ろうとも、たとえ記録に残るような登攀をしようとも、小田切も佐和もアマチュアだ。スポンサーを集め、山に登ることを生業としている、プロの登山家とは根本的に違う。
学生時代、就職活動を前にして、佐和は一生、登山は趣味にしておこうと決めた。「プロの登山家」などという選ばれた人間にしかなれない職は、端から念頭になかったが、山岳ガイドやネイチャーガイド、山小屋職員への勧誘は、まったくなかったわけではない。だが、佐和はそれを断った。山を職場にしてしまうと、今まで抱いてきた山へのあこがれが「仕事」に侵されてしまう気がした。加えて、自分を下界の「群れの社会」から引き離し、山に据えることにもためらいがあった――というより、それが一番だったかもしれない。両親がいて、友人がいて、多くの人間が生活している、下界の「群れ」から孤立するのが、なんとなく、おそろしかったのだ。
だが、その一方で、小田切と一緒にいると、時々思わずにはいられないのだった。「なぜこの男は山にいないで、ここにいるのだろう?」と――。
就職活動の頃には、叶の遭難直後で、山に住みたいとは思わなかったと言っていた。けれども、今は? 今、小田切を地上に縛り付けているのは何だ? 
それを考えると、目の前が暗くなる。
自分は、彼を地上につなぎとめる楔だと思っていた。だが、魂をザイルでつなぐ自分たちの愛が彼を縛り、自分の臆病が彼を生きづらくしているのだとしたら? それでも、佐和は彼を手放そうとは思えない。二人の魂はすでにザイルでしっかりとつながれているのだから――。
……だが、小田切はちらりと佐和に視線を向けると、静かに首を横に振った。
「資金集めに奔走して、名声のために登るのは、おれの性には合いません」
「ご期待に添えなくてすみません」と頭を下げる小田切に、小柄な年配の女性が口を開いた。
「なら、山小屋主はどう?」
長年、弓ケ岳山荘を守ってきた小屋主夫妻の妻だった。夫婦二人、かつて内藤とともに叶の後援会の中心的存在だった人でもある。
「わたしたちもまだ元気だけど、あと十年行けるかしらって話はしてるのよ。体力が落ちる頃には高原に下りたいわねって。あなたたち、興味があるならやってみない? 今すぐにじゃなくてもいいから」
――来るべきときが来たと感じた。今まで七年、佐和とともに下界に留まっていてくれたけれど、いつかこんな日が――彼が山へと誘われるときが来るだろうという予感は、常に佐和の心にあった。
どんなに人間の社会に馴染んでいるように見えても、小田切は山の生きものだ。家族で、社会で、群れで生きている瞬間も、魂はいつも山に呼ばれている。そして彼の魂もまた、せつないほど山に恋い焦がれているのだ。
彼もきっとわかっているだろう。彼にとっては、下界の群れにまぎれるより、山での孤独のほうが生きやすい。ユキヒョウがヒマラヤの断崖に棲み、ライチョウが高嶺のハイマツの陰に拠るように。山での彼と、「群れ」での彼、両方を間近で見ているからこそ、小田切の答えを聞くまでもなく、彼が山からの誘いを断れるはずがないことを、佐和はよく知っていた。
だが、意外なことに、小田切は返事を保留した。アラスカから帰るまではその先のことは考えられないというのが理由だった。それは佐和も同意見だったが――。
(帰ってきたらどうするつもりなんだ?)
ききたいと思うのと同じくらい、きくのがこわかった。
いい話だ。弓ケ岳山荘なら、小田切にも馴染みが深い。だが、彼が小屋を継ぐのなら、会社を辞め、二人で住んでいる今の家も処分することになる。そのとき佐和は、自分たちの関係はどうするつもりなのか。
こんな日が、いつか来るとわかっていた。だからこそ佐和は、小田切に約束をねだったこともあった。忘れもしない、初夏の上高地で、ニリンソウの白い絨毯を眺めながら、『いつかもし本当に山で暮らすときが来ても、佐和を置いていかない』と――。
けれど、そんな口約束で、小田切を縛り付けることなどできない。そんなこと、佐和もしたくない。だったら、自分がついていくのか? 何もかも、彼と山以外のすべてを捨てて――?
佐和には答えが出なかった。

 *

だが、いざ小田切の出した答えを聞いた今、佐和の心はおそろしいほどに澄んでいた。
自分が望んでいた答えはこれだったのだとわかる。まるでそれが自然の摂理であるかのように、小田切の決断を当然のこととして受け止めた。
「そっか。決めたんだ」
満ち足りた声音になった。小田切は安堵したように「ああ」と答えた。
「帰ったらすぐに準備を始める」
「そっか」
佐和はもう一度頷いた。
束の間の沈黙が二人のあいだに落ちる。小田切が何かを言おうと口を開く。けれども、佐和は遮るように先に口にした。
「俺も決めた。俺も行く」
「――」
シュラフがこすれる音がして、こちらを向いた小田切と目が合った。
「おまえだけなんてずるいよ。置いていくな」
反対するなよと目線で諭す。小田切が自ら生きる場所を決めたように、彼と行くと決めたのは佐和の意思だ。
しばらく佐和の顔を見つめていた小田切だが、やがてふっと目許で笑った。
「佐和、睫毛が凍ってる」
「おまえもだよ」
言い返して笑う。数日ぶりの笑い声だった。
外は相変わらずの嵐だ。
北壁で叶のザックとカメラを氷の中から回収し、周囲も可能なかぎり捜索した。だが、叶本人にはとうとう会えないままだった。
頂上を制して、下山時に天候が急変、地吹雪に遭遇。ただちに雪洞を掘り、テントを張ってビバーク二日目――二日目のはずだ。ひたすら体を横たえて体力を温存し、水も食料も節約している。まだまだいのちの危険は感じないが、このまま動けない日が続けば、死の確率は高まるだろう。
だが、小田切と話しているうちに、不思議と悲壮感は薄らいでいた。
おそらくは、長く極限状態に置かれたせいで、精神的におかしくなっている。加えて、もはや「天候ばかりはなるようにしかならない」という心持ちになってきた。もっとも、人は死ぬときはあっけなく死ぬ。叶が帰ってこなかったように、自分たちも帰れないかもしれない。だが、なぜだか佐和自身にも理由はわからないものの、本当に死ぬ気がしないのだ。
外では嵐が吠え猛っている。アラスカの雪嵐はこれだけ暴れてまだ収まる気配がない。白い白い、天も地も真っ白な地吹雪の中、この緑色のテントだけが、山肌にしがみついている様を想像する。
(……そういや、このテントが初夜だったなぁ)
唐突にそんなことを思いだした。
「なあ、小田切。帰ったらエッチしよ」
小田切が勢いよく噴き出した。
「……ああ」
「帰ったら、毎日天国暮らしだ。冬は小屋を閉めて、山に登ろう」
「ああ」
「愛してるよ、小田切」
滅多に口にしないその言葉に、小田切は笑い混じりの声で答えた。
「帰ったら、俺も言ってやる」
佐和は「そりゃ死ねないなぁ」とほほ笑んだ。


どれほどそうしていたのだろう。気づくと、ずっと聞こえていたはずの風の音が消えていた。完全な無音だ。
「佐和」
「うん」
シュラフを開け、体を起こす。
「前髪凍ってる」
「おまえもだって」
互いの前髪を払いながら、テントのジッパーを下ろし、何日かぶりに――確かめたら、三日ぶりだった――雪洞入り口の雪をどける。
「見ろ」
雲の切れ間から射し込む陽光が、雪に反射して目に刺さった。テントから上半身を乗り出し、手のひらをかざす。見晴るかす切り立った渓谷の彼方、嵐をもたらした分厚い雲が、デナリの向こうに遠のいて見えた。
「下山日和だね」
「だな」
二人、顔を見合わせる。生きているのだという実感が、ようやく湧いてきた。
「……叶さんが守ってくれたのかな」
今もこの山の一部となって、叶は眠り続けている。おそらくもう半永久的に、彼が見つかることはないだろう。それを「彼の本望だ」とか「愛した山に眠ることができて幸せだ」とか言う人間もいる。だが、現実はもっと淡々としていると佐和は思う。山はうつくしく、空は青く広く、白い嵐は数日で通り過ぎ、自分たちはここに生きて立っている。けれど、叶のときはそうではなかった。ただ、それだけのことだ。それでも、自分たちを結びつけ、ここに並んで立たせてくれた人に、今はもういないその人に、何かの意味をもたせたくなる気持ちがある。
小田切は黙って佐和の顔を見た。
「……行こうか」
立ち上がり、手を差し出される。それを力強く握り返す。生きている。彼も、自分も。
下山して、帰国したら、今度は二人で山小屋番だ。
「行こう」
「ああ、行こう」
汚れのない一面の純白に、二人はあたらしい一歩を踏み出した。

掌編

天国はまだ遠く ――『天国に手が届く』SS

2018-02-06
耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣で横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない。はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を呑むんだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来たのだ。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めた。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

  *

小田切叶のものと見られる遺品が見つかった。
その知らせは、ある秋の日、突然にやってきた。
アラスカ、デナリの南東約二十キロの位置に、「ブロークントゥース」と呼ばれる山塊がある。ムース・トゥースを中心に、六つの山頂をつなぐ、全長八キロにも及ぶ岩の壁だ。その北壁を冬季単独登攀中、小田切叶は消息を絶った。もう十三年前のことだ。以来、彼自身も、彼の遺品も、吹雪の向こうから帰ってきたものは何一つない。
その叶のものと見られるザックが、オーストリアの登山隊によって偶然発見された。遭難当時、滑落地点とされた場所から、数百メートルもずれた岩場だ。周囲に遺体らしきものはなく、半ば氷漬けになっていたザックの一部しか回収できなかったそうだが、現地にはまだ他にも遺留品があるらしい。
小田切は、その電話を戸隠の山から帰る車内で受けた。ハンズフリー通話のため、車内に響く相手の声を、佐和もまた聞いていた。
小田切は動じなかった。終始落ち着いて冷静に受け答えする横顔に、佐和は彼の覚悟を見た気がした。おそらく彼は、叶がいなくなったときからずっと、こんな電話が来るときのことを繰り返し考えては、覚悟を塗り重ね、応答をシミュレートしてきたに違いなかった。厚く塗り固められた覚悟のおかげで事故を起こすこともなかったが、大切な人の死に関わることを、一ミリの動揺もなく聞く彼の姿には、佐和のほうが泣きたくなった。
そうやって、ガチガチに覚悟を固めておかなければ耐えられないほど、小田切にとって叶は大切な人だった。幼い彼に家族のぬくもりを与えてくれた叔父で、心を預けた山の師匠で、初めてザイルといのちを預けたパートナー。佐和を小田切のところまで導いてくれたのも、他ならぬ叶だ。最期まで一人で山に挑み続けた人だったが、小田切のことを気にかけ、大切にしていたのも本当だった。
今まで、叶はもう帰ってこないのだとわかっていながらも、どこかで、彼が世界の山を歩き続けているような気がしていた。だが、遺留品が見つかったことで――もしかしたら、遺体も見つかるかもしれない可能性が出てきたことで、彼の死はよりはっきりとした輪郭をもち、現実として小田切の目の前に突きつけられようとしている。
動揺を必死に押さえ込み、佐和はハンドルを握る彼の横顔をひたと見つめた。脳裡に、あの夏の槍のうつくしく清澄な夜明けがよみがえった。
――なぁ、佐和。いつか、一緒にアラスカに行ってくれないか。
小田切の言葉に、天に手をかざしながら、佐和は笑って答えたのだった。
――アラスカでも、ヒマラヤでも。いつか天国にだって一緒に行くよ。
あの約束を、果たすときが今、やってきたのだ。
「小田切、行こう」
そう佐和が言ったとき、小田切は小さく目を瞠った。視線は前方から離さなかったが、見えない手で佐和の存在を探るような、抱き締めたいような気配があった。
泣きそうにも見える顔で小さくほほ笑み、小田切は頷いた。
「ああ、行こう」
あの遠い夏の穂高のようだった。


それから一年近くの時間をかけて、二人は少しずつ準備を進めた。
ブロークントゥースは、山岳登攀をする人間には知られた山でも、デナリほど知名度が高い山でもなければ、ルートもそれほど整っていない。アンカレッジ経由でデナリの玄関口、タルキートナへ。そこからさらにセスナ機に乗り、カヒルトナ氷河へ。広大な氷河から見て、デナリと真反対にそびえるのがブロークントゥースだ。全行程三週間の旅を計画するのは、社会人二人にとって容易ではなかった。それが、彼と約束を交わして今まで七年、その約束が果たされなかった最大の理由でもある。
アウトドアメーカー勤務の佐和は、自社製品の耐久実験を兼ねることを条件に、長期休暇と金銭的補助をもぎ取った。小田切は、勤続十年のリフレッシュ休暇をほとんどすべて注ぎ込む。もう三十代半ば。体力と経験、技術を総合的に考えて、今が一番充実している。なんとしても、この夏、叶に会いにいくのだ。二人とも多少の無理は押し通した。
だが、そうやって、社会の枠の中で無理を通す困難を痛感したからかもしれない。
「いっそプロの登山家になっちまえばいいのに」
出発前の壮行会でかけられた一言に、小田切の心が大きく揺れたのを、たぶん、佐和だけが感じ取っていた。


叶の甥、敬介が、叶の遺品を回収にアラスカへ行く。
その噂は、かつて叶と交流の深かった人から人へ、口伝てに広まって、出発の半年前には、「一度あいさつに」という連絡が引きも切らず入ってくるようになった。
仕事では営業などしているが、小田切は元々、人付き合いに積極的なタイプではない。文字どおり閉口する彼を見るに見かね、佐和は提案した。
「いっそ、まとめてあいさつしたら? 壮行会……は、自分たちで開くもんじゃないから、お別れ会?」
それを聞いていた、クライミングジムオーナーの内藤が、「『お別れ会』じゃ縁起が悪い」と言って、壮行会の主催を買って出てくれた。山岳関係者が多い都合上、馴染みが深く集まりやすい、楡生高原のプチホテルを貸し切っての食事会だ。
当日は、叶と交流のあった人たちに加え、小田切や佐和の個人的な友人、知人、果ては佐和の両親まで駆けつけてくれた。
定年退職して、いざ山に登るぞと息巻いている父はともかく、母は三十半ばまで山に明け暮れ、とうとう海外の山に登ると言い出した佐和を危ぶんでの出席だ。「登山に便利だから」というだけの理由で、自宅に居候までさせてもらっている小田切に、せめて直接あいさつがしたいと言うものだから、何を言い出すかと思っていたが、当日はなごやかに言葉を交わし、気付いたらすっかり小田切にほだされていた。「陰のある、折り目正しい、控え目な」小田切に、心を掴まれてしまったらしい。「あんたもせめて小田切くんくらいデリカシーがあればねぇ」と言われ、佐和は苦笑するしかなかった。
なごやかに流れていく時間の中で、会場となったホテルオーナーの渡邊と話していたときだ。日程の確保に苦労したと語る佐和に、叶の登山仲間だったという男性が口を挟んだ。
「そんなまどろっこしいことしなくても、いっそプロの登山家になっちまえばいいのに。敬介、本当に、プロにはならないのか?」
「――」
一瞬、佐和は絶句した。ぬくぬくとくつろいでいたところへ、頭から冷や水をかけられた気分だった。
今まで何度も似たようなことは言われてきた。自分がいるところでもそうなのだから、いない場所ならもっとだろう。だが、何度聞いたところで、慣れるというものでもない。
どんな難ルートを登ろうとも、たとえ記録に残るような登攀をしようとも、小田切も佐和もアマチュアだ。スポンサーを集め、山に登ることを生業としている、プロの登山家とは根本的に違う。
学生時代、就職活動を前にして、佐和は一生、登山は趣味にしておこうと決めた。「プロの登山家」などという選ばれた人間にしかなれない職は、端から念頭になかったが、山岳ガイドやネイチャーガイド、山小屋職員への勧誘は、まったくなかったわけではない。だが、佐和はそれを断った。山を職場にしてしまうと、今まで抱いてきた山へのあこがれが「仕事」に侵されてしまう気がした。加えて、自分を下界の「群れの社会」から引き離し、山に据えることにもためらいがあった――というより、それが一番だったかもしれない。両親がいて、友人がいて、多くの人間が生活している、下界の「群れ」から孤立するのが、なんとなく、おそろしかったのだ。
だが、その一方で、小田切と一緒にいると、時々思わずにはいられないのだった。「なぜこの男は山にいないで、ここにいるのだろう?」と――。
就職活動の頃には、叶の遭難直後で、山に住みたいとは思わなかったと言っていた。けれども、今は? 今、小田切を地上に縛り付けているのは何だ? 
それを考えると、目の前が暗くなる。
自分は、彼を地上につなぎとめる楔だと思っていた。だが、魂をザイルでつなぐ自分たちの愛が彼を縛り、自分の臆病が彼を生きづらくしているのだとしたら? それでも、佐和は彼を手放そうとは思えない。二人の魂はすでにザイルでしっかりとつながれているのだから――。
……だが、小田切はちらりと佐和に視線を向けると、静かに首を横に振った。
「資金集めに奔走して、名声のために登るのは、おれの性には合いません」
「ご期待に添えなくてすみません」と頭を下げる小田切に、小柄な年配の女性が口を開いた。
「なら、山小屋主はどう?」
長年、弓ケ岳山荘を守ってきた小屋主夫妻の妻だった。夫婦二人、かつて内藤とともに叶の後援会の中心的存在だった人でもある。
「わたしたちもまだ元気だけど、あと十年行けるかしらって話はしてるのよ。体力が落ちる頃には高原に下りたいわねって。あなたたち、興味があるならやってみない? 今すぐにじゃなくてもいいから」
――来るべきときが来たと感じた。今まで七年、佐和とともに下界に留まっていてくれたけれど、いつかこんな日が――彼が山へと誘われるときが来るだろうという予感は、常に佐和の心にあった。
どんなに人間の社会に馴染んでいるように見えても、小田切は山の生きものだ。家族で、社会で、群れで生きている瞬間も、魂はいつも山に呼ばれている。そして彼の魂もまた、せつないほど山に恋い焦がれているのだ。
彼もきっとわかっているだろう。彼にとっては、下界の群れにまぎれるより、山での孤独のほうが生きやすい。ユキヒョウがヒマラヤの断崖に棲み、ライチョウが高嶺のハイマツの陰に拠るように。山での彼と、「群れ」での彼、両方を間近で見ているからこそ、小田切の答えを聞くまでもなく、彼が山からの誘いを断れるはずがないことを、佐和はよく知っていた。
だが、意外なことに、小田切は返事を保留した。アラスカから帰るまではその先のことは考えられないというのが理由だった。それは佐和も同意見だったが――。
(帰ってきたらどうするつもりなんだ?)
ききたいと思うのと同じくらい、きくのがこわかった。
いい話だ。弓ケ岳山荘なら、小田切にも馴染みが深い。だが、彼が小屋を継ぐのなら、会社を辞め、二人で住んでいる今の家も処分することになる。そのとき佐和は、自分たちの関係はどうするつもりなのか。
こんな日が、いつか来るとわかっていた。だからこそ佐和は、小田切に約束をねだったこともあった。忘れもしない、初夏の上高地で、ニリンソウの白い絨毯を眺めながら、『いつかもし本当に山で暮らすときが来ても、佐和を置いていかない』と――。
けれど、そんな口約束で、小田切を縛り付けることなどできない。そんなこと、佐和もしたくない。だったら、自分がついていくのか? 何もかも、彼と山以外のすべてを捨てて――?
佐和には答えが出なかった。

 *

だが、いざ小田切の出した答えを聞いた今、佐和の心はおそろしいほどに澄んでいた。
自分が望んでいた答えはこれだったのだとわかる。まるでそれが自然の摂理であるかのように、小田切の決断を当然のこととして受け止めた。
「そっか。決めたんだ」
満ち足りた声音になった。小田切は安堵したように「ああ」と答えた。
「帰ったらすぐに準備を始める」
「そっか」
佐和はもう一度頷いた。
束の間の沈黙が二人のあいだに落ちる。小田切が何かを言おうと口を開く。けれども、佐和は遮るように先に口にした。
「俺も決めた。俺も行く」
「――」
シュラフがこすれる音がして、こちらを向いた小田切と目が合った。
「おまえだけなんてずるいよ。置いていくな」
反対するなよと目線で諭す。小田切が自ら生きる場所を決めたように、彼と行くと決めたのは佐和の意思だ。
しばらく佐和の顔を見つめていた小田切だが、やがてふっと目許で笑った。
「佐和、睫毛が凍ってる」
「おまえもだよ」
言い返して笑う。数日ぶりの笑い声だった。
外は相変わらずの嵐だ。
北壁で叶のザックとカメラを氷の中から回収し、周囲も可能なかぎり捜索した。だが、叶本人にはとうとう会えないままだった。
頂上を制して、下山時に天候が急変、地吹雪に遭遇。ただちに雪洞を掘り、テントを張ってビバーク二日目――二日目のはずだ。ひたすら体を横たえて体力を温存し、水も食料も節約している。まだまだいのちの危険は感じないが、このまま動けない日が続けば、死の確率は高まるだろう。
だが、小田切と話しているうちに、不思議と悲壮感は薄らいでいた。
おそらくは、長く極限状態に置かれたせいで、精神的におかしくなっている。加えて、もはや「天候ばかりはなるようにしかならない」という心持ちになってきた。もっとも、人は死ぬときはあっけなく死ぬ。叶が帰ってこなかったように、自分たちも帰れないかもしれない。だが、なぜだか佐和自身にも理由はわからないものの、本当に死ぬ気がしないのだ。
外では嵐が吠え猛っている。アラスカの雪嵐はこれだけ暴れてまだ収まる気配がない。白い白い、天も地も真っ白な地吹雪の中、この緑色のテントだけが、山肌にしがみついている様を想像する。
(……そういや、このテントが初夜だったなぁ)
唐突にそんなことを思いだした。
「なあ、小田切。帰ったらエッチしよ」
小田切が勢いよく噴き出した。
「……ああ」
「帰ったら、毎日天国暮らしだ。冬は小屋を閉めて、山に登ろう」
「ああ」
「愛してるよ、小田切」
滅多に口にしないその言葉に、小田切は笑い混じりの声で答えた。
「帰ったら、俺も言ってやる」
佐和は「そりゃ死ねないなぁ」とほほ笑んだ。


どれほどそうしていたのだろう。気づくと、ずっと聞こえていたはずの風の音が消えていた。完全な無音だ。
「佐和」
「うん」
シュラフを開け、体を起こす。
「前髪凍ってる」
「おまえもだって」
互いの前髪を払いながら、テントのジッパーを下ろし、何日かぶりに――確かめたら、三日ぶりだった――雪洞入り口の雪をどける。
「見ろ」
雲の切れ間から射し込む陽光が、雪に反射して目に刺さった。テントから上半身を乗り出し、手のひらをかざす。見晴るかす切り立った渓谷の彼方、嵐をもたらした分厚い雲が、デナリの向こうに遠のいて見えた。
「下山日和だね」
「だな」
二人、顔を見合わせる。生きているのだという実感が、ようやく湧いてきた。
「……叶さんが守ってくれたのかな」
今もこの山の一部となって、叶は眠り続けている。おそらくもう半永久的に、彼が見つかることはないだろう。それを「彼の本望だ」とか「愛した山に眠ることができて幸せだ」とか言う人間もいる。だが、現実はもっと淡々としていると佐和は思う。山はうつくしく、空は青く広く、白い嵐は数日で通り過ぎ、自分たちはここに生きて立っている。けれど、叶のときはそうではなかった。ただ、それだけのことだ。それでも、自分たちを結びつけ、ここに並んで立たせてくれた人に、今はもういないその人に、何かの意味をもたせたくなる気持ちがある。
小田切は黙って佐和の顔を見た。
「……行こうか」
立ち上がり、手を差し出される。それを力強く握り返す。生きている。彼も、自分も。
下山して、帰国したら、今度は二人で山小屋番だ。
「行こう」
「ああ、行こう」
汚れのない一面の純白に、二人はあたらしい一歩を踏み出した。

楽園を手作りしよう ――『楽園暮らしはどうですか?』SS

2017-08-28
朝霞がベッドにノートパソコンを持ち込むことについて、市川はあまりいい顔をしない。
つきあいだして間もない頃、朝霞は何度かベッドにパソコンを持ち込んだ。市川は、「ベッドでまで仕事なんて!」と言うが、なにも仕事をするためじゃない。
そもそも朝霞はオタク気質である。ご多分にもれず、スマートフォンやパソコンで何かを読んだり調べたり、SNSで仲間と語らったりするのが好きだ。SNSやネットニュース程度ならスマホですませてしまうのだが、動画や調べものになると小さなスマホの画面ではもの足りない。ついついパソコンをベッドに引きずり込んでしまう。
だが、市川とつきあいだしてからは、彼とベッドで過ごす時間も、かけがえなく心地いいと思うようになった。夏場だって、エアコンで冷やした部屋の中、ベッドでなんとなくくっついて、SNSを眺めたり、動画を見たり、そのうち興味を惹かれたことを調べたり……そのあいだに、彼と触れ合った素足をすり合わせてみたり、ふと悪戯心を起こして寝ている市川の脇腹をくすぐってみたり、起きているときにはできない自分からのキスをしたり、そのうち目を覚ました市川にキスされたり……。そういう、恋人とベッドでじゃれあって過ごす心地よさを知ってしまったら、なかなかベッドから出る気になれない。ので、つい、スマホやらパソコンやらをベッドに持ち込みたくなってしまう。本音を言えば、飲み食いもベッドですめばいいのにとさえ思っている。
でも市川は、ベッドの上で朝霞の意識が彼以外にそれるのが気に入らないらしかった。「ベッドは二人でいちゃいちゃするところだろ」というのが彼の言い分だ。「いちゃいちゃ」って。いい年した大人が口にする言葉じゃない。あきれつつも、彼の甘く整った顔に子供っぽい甘えた言い方は思いがけず似合っていて、ついつい赤面してしまった朝霞である。イケメンずるい。
そんなわけで、ここのところ、ベッドにパソコンを持ち込むのはやめていたのだが、今朝はどうしても我慢できなかった。起きるなり机に置いていたノートパソコンを取りに行き、まだシーツに体温が残るうちにベッドへ戻る。うつぶせになり、枕を胸の下に押し込んでパソコンを開いた。
「智行……?」
昨夜遅番だった市川が、眠そうに目をこすりながら名前を呼ぶ。
「すみません。もう少し寝ていてください」
彼を気遣って言ったつもりが、適当にあしらおうとしているように聞こえたらしい。市川は顔をしかめてあくびをしつつ、体を反転させて起き上がった。ぴったり体の側面を朝霞にくっつけて隣に並ぶ。ちゅっとこめかみにキスされた。
「昨夜はあんなにかわいかったのに……」
「パソコンいじってる俺はかわいくないですか?」
何気なくそうきくと、市川は一瞬目を丸くした。それから、ふわっと蕩けるように微笑する。
「智行がそんなこと言えるようになるなんてなぁ。おれの愛情が着実に実を結んでる感じ」
「……生意気になったとは思わないんですか?」
「俺の愛を疑ってもないってことだろ? おれの愛を信じ切って、その上にあぐらかいてるおまえは最っ高にかわいいよ。おれのほう向いてくれないのはつまらないけど」
こっち向いて、と頭を抱き寄せてキスをされる。たわいない焼きもちに、朝霞は「もう」と小さく笑った。
「で? 何調べてたんだ?」
市川がパソコン画面を覗き込んでくる。彼にも見やすいように体をずらしながら、朝霞は答えた。
「クラウドファンディングってどうやるのかと思って……」
「クラ……なんだって?」
「クラウドファンディング。要は、事業に賛同してくれる出資者を一般に募って、事業資金を集める手法です。目標額を達成したら、それを元手に事業を展開し、出資者には事業に関連する謝礼品で還元する……」
ハウツーページを見せながら説明すると、市川は「ふぅん」と首をかしげた。
「で、何をするのに、そんなに金が必要なんだ?」
よくぞきいてくれました、とばかりに、朝霞は市川を振り返った。
「白浪線の観光鉄道化です!」
今年三月で廃線になった白浪線の跡地は、一部の商業地や住宅地周辺を除いて、未だにほとんど買い手が付いていない。鉄道ファンに人気の高かった入江谷駅付近もその一部だ。白浪線と共に引退した一〇〇系車輌も会社の倉庫で眠っている。あれを買い取り、有志鉄道ファンによる保存・展示運転や運転手体験などができる観光鉄道に整備できたら、白浪線の風景も一〇〇系車輌も、一部ではあるが残すことができる。ついでに、不良債権扱いの土地も一部処分でき、かいでん的にもプラスになるはずだ。
「資金がネックなんですけど、事業自体は不可能ではないと思うんです。当然、社の協力は必要になりますが、クラウドファンディングは使っていないにしても、鉄道ファンによる保存・展示運転は、岡山の片上鉄道の例なんかもありますし、海外にもさまざまな例があるので……」
朝霞の勢いに、市川は最初あっけにとられたようだったが、やがて愉快そうに目を細めた。
「面白そうだな。でもそれ、ウチでやればいいんじゃないか?」
なにもクラウドファンディングなんてしなくても、と言う市川に、朝霞は首を横に振った。
「そんな余計な事業に回せる体力はウチの社にはありません」
「あー、やっぱり?」
「でも、逆に資金調達と事業運営の目処さえ立っていれば、話は聞いてもらえると思うんです。できれば、設備が荒れたり買い手が付いたりする前に企画書を出したいんですけど……」
以前から仕事の片手間に少しずつ調べてきて、残る問題は資金調達だけだった。突如天啓が下りてきたのは昨夜。市川を待つ片手間に眺めていたSNSの投稿から、クラウドファンディングの存在を思い出したのだ。そのすぐあとに市川がやってきて、調べものは途中になってしまったが、朝起きて思い出したらもう我慢できなかった。
「すみません。ベッドにパソコン持ち込むの、やめてたんですけど……」
少々気まずく視線を落とす。市川は筋張った脛で朝霞の脹ら脛をスリッと撫で、頬に軽くキスを寄越した。
「いいよ。智行が電車に夢中になって目をキラキラさせてるの、かわいいし。実行するなら、もちろんおれも協力する」
思わず「本当ですか!?」ととびついた。市川がふっと目を細める。
「入江谷っていったら、おれたちの思い出の場所だもんな」
「!」
思いがけないことを言われ、朝霞は目を見開いた。じわじわと頬が熱くなる。
半年前、波濤とどろく入江谷の駅で顔を合わせたのが、二人が親しくなるきっかけだった。あの雪の降る駅での出会いは、朝霞もはっきりと覚えている。
「それだけが理由じゃないですけど……。じゃあ、企画が通ったら、慎也さん、宣伝部長やってください。女性ファン、たくさん集めてくださいね」
冗談めかした朝霞の言葉に、市川は余裕綽々でにっこりと頷いた。
「智行のためならいくらでも」
もうひとつキスが落ちてくる。
職場も一緒。プライベートも一緒。でも、またひとつ、一緒にできることが見えてきて、最高にわくわくする。
再び入江谷の駅で、運転士姿の恋人を見られるかもしれないと想像し、朝霞は心から幸福にほほ笑んだ。

賢者タイムがやってきました。――『運命の転機は三十歳でした。』SS

2017-01-26
「――……ッ」
荒く大きな呼吸をひとつ。多岐川の中から退いて、力尽きたように東元が覆い被さってくる。全身でその重みを受け止めることになり、多岐川は「うぇっ」とも「ぐぇっ」ともつかない濁音を喉の奥から押し出した。
「ちょっ……どけ、重い!」
「透」
肩で息をつきながら、東元はおかまいなしに多岐川を抱き締めてくる。多岐川の額に張り付いた髪を掻き上げ、まじまじと顔を覗き込む。
「起きてるな」
確認するように言われ、多岐川はにっと笑った。
「おかげさまで」
つきあいはじめて四ヵ月。幾度となくからだを重ねたが、多岐川がコトのあとまで意識を保っていたのは今回がはじめてだ。取り立てて乱暴にされているわけではないが、とにもかくにも一般的ではない東元の巨きさのせいで、一度始めたが最後、前後不覚のまま気をやってしまうのがいつものパターンである。
多岐川としては、べつにそれでもかまわない。多少男の矜持が傷つけられている気もするが、受け身に甘んじている時点で今更だ。
だが、いつも一人で取り残される東元のほうはさみしかったらしい。「今日は丁寧にする」と宣言し、実際そのとおりにされた。おかげで、初めて二人の「事後」というやつを体験している。
「透……」
薄明かりの中、相手の瞳に映る自分がはっきり見えるほど間近から顔を覗き込み、東元が唇を寄せてきた。思わずブッと噴き出してしまう。
「なに雰囲気出してんだ」
笑いながら、キスしようとする東元の口許を手でふさぎ、押し返した。
「とおる?」
多岐川の手に口を覆われたまま、東元は不満そうにもごもごと文句を言っている。多岐川は色気のない笑いを浮かべたまま、ぐいっと東元のからだを押しやった。
「いいかげん、おれの上からどけ。重い」
「……意識がないよりひどいな」
恨み言に、「うるさい」と一睨み。ぷいっと顔をそむけたが、なにしろ至近距離だ。顔が赤いのはばれているかもしれない。ちっと鋭く舌を打った。
(くっそ、なんだこれ。勘弁しろ)
恥ずかしい。とにかく気恥ずかしい。いつものように一度意識が途切れると、気分も多少リセットされていたのだが、意識があるばかりに思いがけず盛大な賢者タイムがやってきてしまった。
髪から足までありとあらゆる体液でぐっちゃぐちゃ、正面から抱きつかれて密着した肌はどこもかしこもいやらしくぬめるし、甘えるように擦りつけられる下肢からはあられもない水音が聞こえてくる。しかも、重い。硬い。やわらかくない。さっきまで男の象徴を突っ込まれていたのに今更すぎるが、改めて「男だな」と思う。多岐川を押し潰さんばかりにのしかかり、ぎゅうぎゅう抱き締めてきている相手は十二年来の腐れ縁の友人だという、この事実!
「……ホント何やってんだろうな、俺たち……」
「透?」
名前を呼ぶ東元の声色が変わった。ちょっと怒っている。まあ、無理もない。女だったら引っぱたかれているところだ。
「どうした。よくなかったか?」
「いや、よかったけど」
ことさら丁寧に、じれったいほどやさしくされるセックスは、いつも以上に多岐川の羞恥と興奮を煽った。
そもそも情熱と体力にあかしてがっつくような年ではない。にもかかわらず、じわじわと高められる情欲におぼれ、「早く」と急かしたのも多岐川なら、「奥まで来いよ」とねだったのも、「動いて」と泣いたのも、最終的に自分から腰を振ってあんあん喘いだのも多岐川である。
思い返すにつけ、よけいに賢者モードがひどくなり、多岐川は頭を抱えた。
(なんか、思ってた以上にみっともねぇな、おれ!?)
「後悔してるのか?」
東元の声がいっそう低くなる。ひやりとするような口調に身を案じた多岐川は、なだめるように彼の背を叩いた。「ねぇよ」と答える。
「けど、十二年も友達やってた相手に何やってんだろうって、我にかえる瞬間ってないか?」
「ないな」
東元はあっさりと否定した。
「むしろ、十二年も何もなくても一緒にいられるほどだったんだ。友情から地続きに、こういうことをしたいと思うようになっても不思議はないと思う」
「あー……、そうか」
そういえばそうだった。東元のほうは、ほぼ最初から多岐川が恋愛対象に入っていたのだ。なら、今多岐川が抱いてるような気恥ずかしさというか、いたたまれなさのようなものは、なくて当然かもしれない。
(けど……)
それはそれでさみしいような気分になるのは、勝手すぎるだろうか。
「……なあ。おまえ、おれのこと、友達だと思ってた?」
つい感傷的な気分になり、そうきいた。彼はけげんそうな表情になった。
「今でも思ってるぞ?」
「あ、そう?」
「恋人になったからといって、友人をやめなくてはいけないわけじゃないだろ」
「それは、まあ」
「恋人の透はかわいくて抱きたくなるし、友人の透を抱くのは興奮する」
サディスティックな顔を覗かせて、東元は色っぽく笑った。
「透はどうなんだ? 本当に後悔はしていないか?」
もう一度きかれる。「してないって」と即答した。
「けど、する気にならないから、すげぇなとは思ってるぜ。若干」
「すごい?」
「友達のおまえとこういうことしたいってすごくないか? おれ、今でも自分でびっくりするんだけど。小山とかとエッチしたいとか、絶対思わねぇもん」
多岐川がそう言うと、東元は一瞬おし黙った。かと思うと、ひどくしあわせそうに口角を上げ、にっこりと笑う。
「……つまり、それだけ俺に惚れてるということだな?」
向き合った彼が腰を揺すると、ごりっと下肢に硬いものが触れる。
ん? と多岐川は首をかしげ、すぐにそれが何か、思い至った。
「おまっ……、あっ、ちょっ、何して……っ!?」
「そこまで言われたら、期待に応じないわけにはいかないだろ」
「違う! ちがう……って、あっ、クソ、待てって……っ」
多岐川の腰をがっちり抱え直した東元が、腰を深く沈めてくる。
自分のうかつさを脳内で詰りながら、多岐川は今度こそ正気を失う快感に巻き込まれていった。

天国はまだ遠く(冒頭) ――『天国に手が届く』 SS

2016-08-11
耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣に横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない、はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を飲んだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来た。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めたのだ。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

(つづく)

祇園宵歌  ――『京恋路上ル下ル』SS

2016-07-31
祇園の町は、なんとなく異世界だ。
舞妓、芸妓、丹塗りの壁。「一見さんお断り」がまだ伝説になりきっていない町に、学生の自分は場違いだ。地元から遊びに来る友人たちを案内するたび、颯馬はそう感じていた。しらけた雰囲気の昼間ならまだしも、夕暮れの後はとくに。
その認識を颯馬は今夜改めた。夜の祇園はまったくの異世界だ。学生がいていい場所じゃない。
「ちょっと待って、ここ?」
一週間ほどぐずついた梅雨空から久しぶりに青空が覗いたその夕べ、祇園甲部の路地の奥、どこからか三味線の音が聞こえてくる小さな町屋を、颯馬は当惑気味に見上げた。
傍らに立った伊織がゆるりと首を傾げる。何にそんなに臆するのかと言わんばかりの表情だが、颯馬はかなり本気で困惑していた。
目の前の町屋は――いや、「町屋」と呼ぶのが正しいのかもよくわからないが、とにかくその建物は、颯馬の認識が間違っていなければいわゆる「お茶屋」のように見えた。
白壁に板塀、二階の窓には簾が掛かり、瓦屋根の乗った門に竹格子の引き戸がはめ込まれている。その奥には、「はな江」と白く染め抜かれた花紫の暖簾が、提灯の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。よくよく見れば、門の軒先の外灯にも小さく「はな江」と墨書がある。
「……伊織さん、俺、あんまり金持ってないんだけど……」
男として恋人にはあまり言いたくないことだが、言わずにはいられなかった。こんなところで見栄を張ってもしかたがない。颯馬はごく普通の大学生だ。今日だって大学から帰ってきたところを、「知り合いのとこつき合うて」と連れ出されての今だった。いや、「ばあさんの知り合いが、どうしてもおまえに会いたいて言わはんねん」とは言われた。「もしかしたら泊まりになるかも」とも言われた気がする。伊織の亡き祖母はつ江が、祇園の芸妓だったことも知ってはいる。だが、まさか、こんなところに連れてこられるとは思ってもみない。
珍しく尻込みする颯馬を横目に、伊織はおかしそうに深紫の和服の肩を揺らし・た。
「伊織さん」
笑いごとじゃないよと眉尻を下げる。彼は目を細めてきれいに微笑んで見せた。
「かまへんさかい、そのまんま、いつものまんま、ぼくの目ぇ見てにこにこしとり」
そう言って、格子戸を引き開け、暖簾の奥に向かって、「ごめんください」と声をかける。奥から「へえ」と応えがあった。こうなったら颯馬も腹をくくるしかない。
奥から現れたのは、白髪を上品に結い、藤色の和服を身に着けた女性だった。見事な白髪なので高齢なのだと思うが、背筋はしゃんと伸び、往年の美貌を彷彿させる顔立ちも相俟って、さっぱり年齢不詳だ。
彼女は伊織の姿に目を細めると、彼の京訛りよりもさらにやんわりとした、花街独特の抑揚で言った。
「まあまあ、伊織ちゃん、ようお越しやす、お越しやす」
「ご無沙汰してます、はな江さん」
「ほんまやわあ、寂しかってんえ。よう来とくれやしたなぁ」
「遅ぉなってすいません」
祖父の留蔵に見せるような、やさしげな表情で伊織は微笑む。その腕のあたりを、しなびた手で何度かさすり、彼女は道を空けるように立ち上がった。
「まあ、どうぞおあがりやす」
三和土に草履を脱いで上がりながら、伊織が「お言葉に甘えます」と答える。二人が通されたのは六畳に床の間の付いた簡素な和室だった。外観も古そうだったが、内部も相当年期が入っている。床が若干傾いているように感じるのは気のせいではないだろう。歩くと、ところどころ畳が沈む。
座卓の一辺に並んで座ったタイミングで、くん、とシャツの袖先を伊織に引かれた。はっとして、提げてきた紙袋から取り出した箱を差し出す。
「あの、これ、よかったら」
「まあま、金平糖。おおきに。ほんま、おおきに」
うれしそうに受け取り、はな江は二人にお茶を淹れてくれた。茶托に乗せて出されたお茶を「いただきます」と口に運ぶ。伊織の淹れるそれほどではないが――と思うのは、惚れた欲目もあるのだろう――ふくよかな香りが口に広がった。
「美味しいです」
「まあ、おおきに」
颯馬の言葉に大げさなほどうれしそうに笑い、それからはな江は、ふふふと含む笑みに表情を変えた。
「伊織ちゃん、紹介してくれへんの」
伊織はやはりやさしげな風情で笑い、颯馬に視線を流した。
「颯馬、言います。颯馬、こちらはばあさんの妹さん……言うてもわからんかな?」
「?」
妹と言うなら血の繋がった姉妹ということになるが、そういうニュアンスではなさそうだ。軽く首をかしげると、伊織はふっと微笑んだ。
「まあ、簡単に言うたら後輩の芸妓さんやった人で、はな江さん。今は芸妓やめて、この旅館の女将したはる」
その説明で納得がいった。
夜の町で生きる人たちの独特なつながりは、颯馬にはまったく縁がない。けれども、伊織にとっては親戚も同然の人なのだということはわかった。
「里見颯馬です。よろしくお願いします」
改めて頭を下げてから、ふと気になったことを口にした。
「ここ、旅館なんですか?」
「以前はお茶屋やったんどす。四十年ほど前にお茶屋はやめはって、今はわたしが旅館としてやらせてもろてます」
「そうなんですね。実は俺、今日ここに来るの知らなくて。表でお茶屋さんだと思って、すっごい緊張してたんです」
素直に吐露すると、はな江はほろほろと上品に笑った。伊織に視線を移して言う。
「こんなかわいい子ぉたぶらかして、伊織ちゃんたら悪い子ぉやなぁ」
「!?」
思わず口に含んだ茶を噴き出しそうになった。
(なに、この人、俺たちのこと知ってるのか!?)
慌てて視線を向けるが、伊織は涼しい顔で「人聞きが悪いですよ」と言い返す。
「たぶらかされたんはぼくのほうです」
「伊織さん!」
「あらま、ほんまに?」
面白そうに覗き込まれ、颯馬はしどろもどろに答えた。
「えっ? ええと、……はい」
「まあ、かわいい」
口調の端に、長年花街で生きてきた女性の色と凄みがちらりと覗く。颯馬など、この人の前では本当に子どもに過ぎないのだろう。
はな江が上機嫌に笑って席を立つ。いたずらな笑みをひとつ。
「仕出しのお願いしてきまひょ。今日はお客さん二組さんだけやさかい、あとでぎょうさんお話聞かせとくれやっしゃ」
黄ばんだ襖が音もなく閉じた。


はな江を交えての夕食は、近所の仕出し屋からの料理と酒を囲み、二時間ほどでお開きになった。
玄関から「ごめんください」と呼ぶ声がする。今夜の客が着いたらしい。時刻は十時を回っているが、「はな江」では珍しいことではないようだった。ここは祇園、夜の遊びは客の裁量。「はな江」は寝床と朝食だけを提供する、「片泊まり」の宿なのだ。
はな江が「はーい」と応えを返す。
「そしたら、ぼくらもそろそろ」
そう言って腰を上げかけた伊織を、はな江は立ち上がりつつ、「そんなこと言わんと」と両手で制した。
「お酒もぎょうさん上がらはったし、泊まっとくれやす。明日の朝ごはんはわたしが作るさかいに、なあ?」
「はあ……」
伊織は颯馬に視線を寄越した。「どうする?」と目でたずねてくるから、少しだけ首を傾げて微笑み、頷いた。「伊織さんのいいようにするよ」――声にせずとも、言いたいことはちゃんと伝わる。
「そしたら、お世話んなります」
そんなわけで、二人は「はな江」に泊まっていくことになった。
小さな浴場で湯をもらい、備え付けられていた浴衣に着替えて戻ってくると、部屋からはぽろぽろと三味線の音がこぼれていた。最初は部屋を間違えたかと思ったが、「ききょう」の間で間違いない。
部屋の襖をそうっと開け、中を覗くと、坪庭に面した縁側で伊織が三味線を爪弾いていた。雲間から射し込む月の光が、青白く伊織の輪郭を浮かび上がらせている。
不思議な光景だった。うつくしい絵を目の前にしたときのように、ずっと見つめていたいような、それでいて彼の視線をこちらに向かせたい焦燥に駆られるような――。
「……伊織さん」
衝動に正直に、颯馬は伊織の名を呼んだ。籐椅子に掛けた彼の足元に寄る。伊織の手元からぽろんと音がこぼれた。浴衣の膝に顔を埋め、颯馬はもう一度「伊織さん」と呼んだ。
「どないしたん?」
ほんの少し甘やかす声音に、「うん」と答えて言葉を探す。
「いちゃいちゃしたくなった」
顔を上げないまま、くぐもった声で口にすると、案の定伊織に笑われた。
「颯馬?」
声音が更に甘やかす色になる。頭上で身じろぎの音がして、ほっそりとした指が颯馬の髪を梳いた。
「はな江さんに俺のこと話したの?」
「うん……?」
笑みを含んだ相づちが先をうながす。
「伊織さんが、俺のことそういうふうに人に紹介してくれたの、はじめてだ。……うれしい」
「ぼくから言うたわけとちゃうよ。あの人がどっからか噂を聞いてきて、おまえに会いたいて言わはった」
「それでも」
うれしい、と、腰に腕を回して抱きしめる。伊織はくすくすと笑うばかりだ。
「伊織さん……」
自分の頭を撫でている手を取り、指先に口づけ、舐めた。伊織のからだは爪の色かたちまでうつくしい。上目遣いにうかがうと、伊織はやんわりと笑んでこちらを見た。そこに拒絶がないことをよくよく確かめてから、その細腰を抱え上げる。
「わっ、こら、颯馬!」
伊織の頭を鴨居にぶつけないよう注意を払って布団へ運んだ。上掛けを剥がし、敷き布団の上に彼を横たえる。出先だからとこらえていた抑制が、まったく利かなくなっていた。颯馬は伊織が好きで好きで、いつでも「好きだ」と伝えたくてしかたない。そんな相手に恋人として受け入れられている。今夜はそれをこんなかたちで知ることができた。うれしくて――触れたくてたまらない。
「ね、伊織さん、いい……?」
組み敷いた恋人を上から見つめる。懇願する声音に、伊織はかすかに目を見開いた。かと思うと、花が咲うような笑みを浮かべる。
「ええよ、」
ひそやかな声が颯馬を誘った。
「颯馬のええように抱いとくれやす」


翌日の朝食は、日もとうに昇った八時過ぎ、ほとほとと襖を叩く音と一緒にやってきた。旅館にしては遅い朝食だ。
「おはようさんどす。よう眠れましたやろか?」
昨夜の行為に気付いているのかいないのか、うかがわせることすらしない笑みで、はな江は朝食の膳を整えた。白米に漬物、野菜の炊き合わせと、二色の蒟蒻そうめんに味噌汁。目にも涼やかな京都の朝ご飯だ。
「おかげさまで」
昨夜の乱れた姿など一片も残さない涼しい顔で、伊織は「いただきます」と手を合わせた。
一人どぎまぎしている自分がどうにも子どもっぽく感じる。張り合ったところで、颯馬がこの二人に敵うわけもないのだが。
もくもくと朝食を口に運んでいると、不意に、ほほほとはな江が笑い出した。
つい視線を向けると、「いえねぇ」とおかしそうに口元に手をあてる。
「はつ江姉さんのかわいいお孫さんやさかい、わたしもこないしてかわいがらしてもろてますけど、こんなかわいい伊織ちゃん見たんははじめてやと思て」
「はな江さん」
咎めるような伊織の声にも頓着せず、はな江はいたずらめいた顔で颯馬を見た。
「今まで何度も、ええ人できたら連れておいで、言うても、一度も連れて来てくれたことなんかあらしまへんのえ。それが、あんたさんのときは、ちょぉっときいただけで……」
「はな江さん」
いささか語気を強めて伊織が遮った。顔をしかめているものの、目尻の下がほんのり赤い。はな江はますますおかしそうに笑い、「よかったわねぇ」としみじみと言う。
「伊織ちゃんにええ人ができて、わたしも安心どす。ちょぉっと素直やあらしまへんけど、颯馬はん、よろしゅうお頼申します」
老齢の美女に頭を下げられ、颯馬は慌てて頷いた。
「もちろんです。俺、絶対、伊織さんをしあわせにしますから」
伊織はとうとう箸を置き、両手で顔を覆ってしまった。ほろほろとはな江の笑いが響く。
「そしたら、ごゆっくり」
はな江が部屋を出て行ったあと、そっと座卓を回り込んで声をかける。
「伊織さん」
手にかけた手は振り払われてしまったが、覗いた耳の先が真っ赤だ。
颯馬はその耳の先に、ちゅっと触れるキスを落とした。誓いのキスの代わりとして。