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終の棲家 ――『てのひらにひとつ』SS

夏、山里の夕暮れは森の奥からやってくる。木の葉の裏、岩の陰、冷たい清水の流れのふち……ひっそりと宿った夜の気配に呼ばれ、ひぐらしの輪唱が里を覆う。
庭に干していた洗濯物を取り込みながら、西の空を仰いだ。一日かっかと燃えていた太陽は黒ずみ、熾火を残した炭のようだ。一緒に暮らす恋人は一時間ほど前に呼ばれて出て行ったきり、戻ってこない。
山間の開けた谷に数十世帯、肩を寄せ合うように暮らす小さな集落。一つの名字を共有し、互いに下の名前で呼び合う住人たちは、僕らにとっても家族のようなものだ。村でただ一人の医者は、二十四時間いつだって、呼ばれればどこへでも駆けつける。今日も本来は休診のはずなのだが、彼も、彼の患者たちも、僕も気にとめてはいなかった。「休診」は、単に「家まで連絡してください」くらいの符号に過ぎない。
最後に布団を取り込み、縁側で一息ついた。濃い緑の風が家の前に広がる田んぼの稲をさぁっと揺らして駆けていく。熱っぽい土の匂いと、青々と濃い草木の匂い。雪国らしく深い庇は、夏の日差しもよく遮ってくれる。
そのまま縁側で洗濯物をたたんだ。集会所のスピーカーから流れてくる「遠き山に日は落ちて」が、午後五時を知らせている。
あまりにものどかな光景に、あくびをひとつ。眠気を誘われ、広縁から畳に頭だけ載せて横になった。ひんやりした床板が心地いい。
気づくと誰かが僕の頭を撫でていた。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。やさしい指はこめかみの上あたり、さわさわと髪を梳いている。指先から注がれる愛情にほほ笑みたくなるような、胸の奥が苦しくなるような……こんなふうに自分に触れるひとを、僕は一人しか知らない。
「おかえりなさい」
その手の甲に口づける。うっすらと目を開けると、すぐ隣に腰を下ろしていた拓道さんが、目尻の皺を深めてほほ笑んだ。
「ただいま。起こしてごめん」
「いえ……、キヨさん、大丈夫でしたか」
まだ半分まどろみの中から尋ねる。もう少しこの心地よさを味わっていたい。僕の望みを読み取ったように、彼の手は僕を甘やかす。
「いつもの腰痛だよ。しばらく畑仕事はお休みだ」
「もうすぐスイカができるから、お孫さんに食べさせるんだって張り切ってたのに……」
「八十歳だからね。気持ちは若いけど、体がついてこないのかもしれないね」
いたずらに髪をかき混ぜていた指が、いつしか何かを探す動きに変わった。指先が地肌に触れてくすぐったい。
しばらくして、
「抜いていい?」
子どものような真剣さで尋ねられた。笑いをこらえ、
「いいですよ」
ぷちっと髪の抜ける感覚。それからまた飽きもせず髪を混ぜる。
彼は僕の白髪を抜くのが好きだ。僕の髪に白いものが混じるようになってから、気づくとしょっちゅうこうしている。
彼の膝に額をこすりつけ、
「拓道さん、これ好きですね」
そう言ったら、「思う存分きみに触っていられるからね」と返された。どんな顔をしていいのかわからなくなる。年甲斐もなく、他愛もない。
知り合って二十年、人生のちょうど半分を彼と過ごした。出会った頃にはまだ子どもだった僕の頭にはそろそろ白髪が混じりはじめ、拓道さんは白髪のほうが多くなった。抜け毛が少ないのが救いだと彼は笑う。仮に彼の髪の毛がすっかりなくなってしまったところで僕にとっては大きな問題ではないけれど、同じ男として、そう主張したくなる気持ちはわからなくもない。
遠距離恋愛を二年、大学卒業と同時に彼のもとへ引っ越した。無数の小さなすれ違いと、小さくはない喧嘩を数回。それでも思い返せば常に二人、一緒だった。家族に二人の仲を告げたときも、僕が会計士資格を取ったときも、彼がようやく医師免許を手にしたときも、最初に二人で住んだ町で心ない中傷に悩んだときも……。
拓道さんのお祖父さんの家があったこの集落へ越してきたのは一年前だ。転居と同時に僕は「日下部」の籍に入った。人生もそろそろ折り返し。いつしか将来ではなく、残りの時間をどう過ごすかを考えるようになっていた。一回り年上の彼は、もっと早くにそういう心境だったのだろう。つきあって二十年、彼が泣くところを見たのは、後にも先にも、僕が籍を入れたいと申し出たあの日だけだ。
医師としてここへ越してくるにあたり、拓道さんは最初にカミングアウトした。
「私たちは戸籍上は親子ですが、実際には人生のパートナーです。それをあらかじめご承知おきいただきたい」
堂々とした彼の宣言に、村長を初め村の老人たちは唖然としていた。だが、そのおかげか、この村での生活は平穏だ。以前は日常茶飯事だった見合い話をもちかけられることもない。
宵闇が東の山を越えてやってくる。ひんやりとした甘い水と土の匂い。夏虫とカエルの声。
「そうだ、キヨさんに笹竹をもらったよ」
「また現物払いですか?」
「今日は仕事じゃないからね」
彼の穏やかな笑みが好きだと思う。出会った頃と変わらない、信念があってやさしい――。
「拓道さん」
あの頃の僕は、一瞬も立ち止まっていられないほど懸命に恋をしていた。今も、やはりあなたが好きだと思う。変わったようでいて、たしかに一続きの、二人の時間。
「幸せです」
「私もですよ」
静かに、ていねいに、生きていこうと思う。
最後のときまで、二人、寄り添って。
この終の棲家で。



(初出:『小説Dear+』2013年ナツ号・出版社より掲載許可済み)
2018-04-19