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89番目の駅 ―prologue―

いくつめかのトンネルを抜けると、規則的な振動がゆっくりと遅くなった。
ゆるやかな減速を、整司(せいじ)は頭の中で数式に置き換える。シンプルな運動方程式。それを打ち砕く揺れとともに停止した電車は、そのまま沈黙してしまった。
頭の中で広げた時刻表をめくり、整司は沈黙の意味を理解した。この鈍行列車は、ここで特急列車の通過を待つのだ。
古びた車両には整司一人しか乗っていない。彼はそのデータを口に出して確かめた。
「八十七番目の駅、神住(かすみ)。八分の停車」
防寒のため閉まったままのドアの向こうから、低い海鳴りが聞こえている。神住の冬の音だ。冬の日本海は天候に関係なくこんな音を立てる。一年前初めてこのあたりを訪れてから、冬のあいだに四度、整司はこの音を聞いた。
そう、最初の訪問からもう一年になるのだ。
そのあいだに整司は二十二になり、白波瀬(しらはぜ)は五十六になった。美しい数字の関係は崩れ、代わりに居心地のいい関係が築かれた。
二十二年の人生で、他人のそばを「居心地がいい」と思うのは、整司にとって初めての経験だった。整司を理解しようと努めてくれている両親でさえ、時折そうとは気づかず、整司の神経を逆撫でする。そういうことが、なぜか奇跡のように白波瀬にはなかった。理由は整司にもわからないし、それ自体はどうでもいい。けれど、彼のそばで数字の世界に浸って過ごす時間は、整司にとって今もっとも満たされる時間だ。
八十九番目の駅に行けば白波瀬に会える。それがこの一年、整司の気持ちの支えだった。
そんな、唯一そばにいたいと思う相手を、整司は今失おうとしている。
――アメリカの大学がきみに来てほしいと言ってきている。
昨日、大学の指導教官から告げられたことばを反芻し、整司は神経質な表情で眉をひそめた。
整司にとって、新しい環境はそれだけで大きなストレスになる。教授は生活面には手を尽くすと言ってくれたが、言葉も通じない、初対面の人間ばかりの中で果たしてまともに生活できるのか、自信はない。けれど、今の整司にとっては、はっきり言ってそれすらも些末事だった。生活面の困難はどこにいたって発生する。二十二年社会の隅でなんとか生きてきたように、今回もなんとかして乗り越えるしかない。
でも、アメリカに八十九番目の駅はない。
いや、八十九番目の駅はどこかにはあるだろう。けれど、そこは入江谷(いりえだに)ではないし、そこにあの美しい鉄橋はない。なによりそこには白波瀬がいない。当然だ。当然だが、それはアメリカという新しい環境以上に、整司を苦しめる問題だった。
窓の外では雪がちらつき始めている。白波瀬が好きだと言う、荒々しい冬の日本海。低く垂れ込めた灰色の雲と、美しい数列の孤を描く雪化粧の鉄橋。今日の入江谷駅は一年前と同じ風景だろう。そこにいる相手を思い浮かべると、胸の奥がキリと痛んだ。
アメリカで整司が乗る電車は、どんなに遠くまで乗っても、けっして白波瀬のもとにまではつながっていない。それを思うだけで心臓の横あたりがキリキリと痛む。叫びだしたい衝動に駆られる。堪えきれず、ダッフルコートの胸元を掴み、足を踏みならしてわめいた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!!」
わめくだけわめいたら、少しだけすっきりした。ほぼ同時にゴトンと電車が動き出す。
あと二駅。あと十八分。
八十九番目の駅には白波瀬がいる。それは整司にとってとても、とても重要なことだ。水と空気と数字と同じくらいに。
どうして周囲の人間は、それをわかってくれないのだろう。
整司は両手に顔を埋めた。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
ほかの誰がわからなくても、白波瀬だけはわかってくれると思っていたのに。
2018-09-19