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89番目の駅 ―1―

一年前のその日、整司は大学の最寄り駅からふらりと電車に乗った。
一番近い駅までの切符だけ買って、けれど、その駅は当たり前のように通り過ぎた。支払いは降車駅での精算でいい。どこでもいいから、誰も自分を知らないところに行きたかった。
整司をとりまく世界は、いつだって窮屈だ。誰もに同じ枠と物差しを押しつけて、そのくせ「柔軟性」なんてものを都合の良いときだけ要求する。
整司は人付き合いそのものが苦手だが、とりわけ同年代の相手と接することが不得手だった。視線と笑みだけで交わされる不透明な連帯感。難解な暗号のような会話。ただでさえ他人の表情や文脈を読むことが苦手な整司には、彼らとの会話は苦痛でしかない。何かを言えば「空気が読めない」と言われ、黙っていれば「暗い」と言われた。まったくもって意味不明だ。空気は読むものではないし、人間に光度があるわけでもない。だが、そう主張すると、今度は奇異なものを見る目で見られたり、かわいそうな人に接するように過度に親切にされたりした。
鬱陶しい。煩わしい。放っておいてほしい。
整司の感覚では自分は正常だし、かわいそうでもない。自分たちの尺度を押しつけて、勝手に判断しないでほしい。
鬱屈が溜まりにたまって我慢ならなくなると、整司はこうして電車に乗る。
整司の脳内には、日本全国の路線図と時刻表が、整然と整理され、収まっている。その中から気の向いた路線を選び、好きな数字の駅を目指す。それが整司の旅の仕方だ。今日は特別疲れた気分だったから、一番好きな数字を選んだ。
ゆるいカーブの遠心力を体に感じながら、そっと呟く。
「今日はJR日本海線から日本海電鉄白浪線。八十九番目の駅は入江谷。乗り換え四回。到着は十五時四十二分」
それだけで、嫌なことが一つずつ、真っ白に消去されていく感じがした。
窓から外を眺めながら、整司の意識は数字の世界へと飛び立っていく。
各駅ごとに加速と減速と停止を繰り返す電車の規則的なリズム。脳裏に広がる数字の世界。それだけでも十分だけれど、誰も自分を知らないところなら、いっそう自由になれる気がする。
その日は電車に乗ったときから、整司はずっと一つの数列のことを考えていた。大学の講義は時折目新しい材料を整司に与えてくれるけれど、たいていはとても退屈だ。教授たちの話を真面目に聞くよりも、自分の中に広がる数字の世界に遊ぶことを整司は好んだ。
乗り換えを繰り返し、最後に乗り込んだ電車は、たった二両のワンマンカーだった。座席は古びたボックス式シートだ。地方路線特有のこの車両が、整司は好きだった。ベンチ式シートにはないゆとりが、旅行の気分をかきたてる。
いくつめかのトンネルをくぐったとき、目の前に突然海が現れた。
といっても、広々とした海ではない。山と山のあいだに横たわる谷間の入江。荒れた海は、どんよりとした空の色を映して、暗く鈍い色をしていた。
電車がゆるやかに減速を始める。その音が軽いことに気づき、鉄橋の上を走っているのだと気づいた。ずいぶんと長い。
やがて電車が止まったところが今日の目的地、八十九番目の入江谷駅だった。
けっこうな額になった乗り越し料金を運転手に支払い、整司は電車を降りた。こちらのホームと向かいのホームに、庇の付いた木製のベンチと公衆電話のボックスが一つずつ。それ以外は待合室も改札もない、さびれた無人駅だった。
民宿でもなんでもいい、どこか泊まるところがあるだろうか。
あまり期待できなさそうな予感を抱きながら、ホームを歩く。そして端まで来たとき、整司は感嘆に息をのんだ。
見事な緋色の鉄橋が、目の前に長く横たわっていた。
整司のいる駅は、海に面した谷の西の山腹にあり、鉄橋は反対側の山腹までまっすぐに伸びている。谷は深く、鉄橋はかなりの高さだった。短いスパンで鋼鉄製の橋脚が並ぶトレッスル橋だ。
特筆すべきはその橋脚の美しさだった。一見しただけではわかりにくいが、立体的にとらえると、横桁や縦桁、横構や対傾構の組み合わせが、美しい螺旋を描いていることがわかる。
「フィボナッチ数列」
一目で心を奪われた。時間を忘れて立ち尽くした。
ときどき忘れたころに電車がやってきて、鉄橋の上でかろやかに歌う。立体の図形と音が、それぞれに心地よいリズムを生む。そのさまを整司は飽きずに見つめた。
いったいどれくらい眺めていただろう。低く垂れ込めた雲から、いつしか雪が舞い始めた。あたりは少しずつ墨を溶くように暗くなっていく。
何本目かの電車が通り過ぎたとき、整司は鉄橋が闇にまぎれ、ぼんやりとしたシルエットしか見えなくなっていることに気づいた。肩にも頭にも雪がうっすらと降り積もり、しんしんと冷えている。右腕にはめた時計を見て、目を見開いた。十九時四十九分。今日はもう登りも下りも電車は来ない。特急が通過するだけだ。
どうするべきか……駅があるのだから、あたりに人は住んでいるのだろう。駅からは見えなかったが、谷に下りて探してみるべきか。けれど、知らない家をいきなり訪ね、泊めてくれと頼むのは、整司にはかなり難しいことだった。
途方にくれていると、ホームの端から男性が一人、ゆっくりと階段を上がってきた。
背の高い男だった。整司の父親よりも少し年上、指導教官くらいだろうか。眼鏡をかけ、大きな鞄を一つ提げている。白髪交じりの髪が、降り積もった雪のように見えた。
彼は淡々とした口調で言った。
「これ以上待っても電車は来ないよ」
思ったよりも若々しい声。
それが白波瀬との出会いだった。
2018-09-26