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89番目の駅 ―2―

一年前のその日、一人の青年を拾った。
最終電車で帰ってきた入江谷の駅の反対側ホームに、彼はひとり立ち尽くしていた。肩にも頭にもうっすらと雪を積もらせて。
旅行者だろうか。一時間に一本電車が通ればいいような辺鄙な場所だが、山と山のあいだにかけられた巨大な鉄橋は、一部の鉄道ファンや写真愛好家に人気がある。ただ、日は既に山に落ち、電車ももう今夜は来ないはずだ。そんな駅で彼はいったい何をしているのだろう。
気にかかりながらも、いったんは知らぬふりで駅から集落への道を下りはじめた。けれど、どうしても彼が気になる。結局階段を半分以上引き返し、反対側のホームに向かった。
間近に立ってみると、小柄な青年だった。百九十センチ近くある白波瀬は、同年代では規格外の扱いだが、それを抜きにしても彼は小柄だ。せいぜい白波瀬の顎くらいまでしかない。コートからのぞく指はひどく細く、指先は寒さのためか、桜貝のような薄紅色をしていた。手袋はどうしたのだろう。
「これ以上待っても電車は来ないよ」
白波瀬がそう教えてやると、大きな目でじっとこちらを見つめた。細い顎が神経質な印象だが、清潔な顔立ちをしている。磨いた薄いガラスのような、脆さと緊張感が同居する独特の雰囲気があった。
白波瀬の言葉の意味を考えるような間を一拍置いたあと、彼は真顔で首を横に振った。
「いいえ、次の電車は明朝七時二十八分、白浪行き各駅停車です。白浪で崎山行き急行に十三分で接続します」
微妙にかみ合わない返事と、意固地なほどきっぱりとした口調に内心面食らう。
迷いなく始発を言い当てたので地元の子かとも思った。だが、見覚えはない。背後を山に、目の前を日本海に囲まれた小さな漁村だ。百人にも満たない住人の顔は全員覚えている。
「まさか、それまでここにいるつもり?」
そうたずねると、彼は今度はおぼつかなげに眉を寄せ、うつむいた。青ざめた唇が小さく震えている。
「寒いだろう?」
「寒いです」
「明け方には氷点下まで下がるよ。どこか泊まるところはあるの」
「いいえ」
「そうか。それならうちにおいで」
するりとそう口にしていた。自分でも思いがけないほど簡単に。
青年が驚いた顔でこちらを見上げる。眸の中を逡巡がよぎる。けれど、それも一瞬。
不躾なほどまっすぐな目で白波瀬を見据えて、彼は言った。
「あなたの家に行きます」
きっぱりと生真面目な、けれど、どこか単調な口ぶりで。


駅から谷底の集落へ下りる道を、前後に連なって歩いた。
まともに舗装すらされていない、人一人ぶんの細く急な坂道だ。白波瀬の持つ懐中電灯だけが、ゆらゆらとおぼつかない光の輪を足下に投げている。
背後を振り返ると、彼はうつむき気味に付いてきていた。
「きみはどうしてここに? 鉄橋の写真でも撮りにきたの」
たずねると、一拍置いて、「いいえ」と返ってきた。
「じゃあ、駅で何をしてたんだい?」
「鉄橋を見ていました」
「見る?」
「はい。隅々まで見て覚えます」
「なるほど、そうすれば写真に撮る必要もないってことか」
彼の端的な答えは、白波瀬の心の琴線に触れた。好きなもの、見たいものに対する、彼の静かな熱意と誠実さを感じた。
「鉄道ファンなの?」
「はい」
即答だ。と思ったら、今度はいきなり怒濤のようにしゃべり始めた。
「電車はいいです。時刻表の通りに決まった時間に決まった速度で決まったところを走ります。日本の電車の時刻表に対する平均誤差は在来線で五十秒から六十秒、八十五から八十七%の電車が定刻に発車します。世界一の精度です。規則正しい振動も好きです。電化路線を時速九十から百キロで走っているときのリズムが一番いいです。緻密なダイヤグラムや時刻表は美しいと思います……」
相づちも挟ませない勢いに内心驚いた。だが、返事をするときの独特の間や、この突拍子のないしゃべり方には覚えがある。過去に見てきた教え子たちの顔を脳裡に浮かべ、発達障害の可能性に思い至った。
彼が思う存分しゃべり、一息ついたところで頷く。
「そうか。つまり、きみはすごく鉄道が好きなんだ」
彼はまた一拍黙り込み、噛みしめるように答えた。
「はい。僕は鉄道が好きです」
その声が、口調が、あまりにもしみじみとしあわせそうで、白波瀬は小さくほほ笑んだ。
彼が一人でしゃべっているうちに、二人は駅からの階段を下り、集落の中に踏み込んでいた。住人しか通らない裏道は畑と道の境も曖昧で、道端に金柑の枝が茂っていたり、大根の葉がはみ出してきていたりする。彼の足下を照らしながらゆっくりと歩き、やがて海辺の家に着いた。黒く焼いた杉板を下向きに重ねて壁にした、漁師町独特の漁り屋だ。海に面した一階部分は海水が屋内まで引き入れられていて、父が使っていた小舟が一艘、今も収められている。
「着いたよ。どうぞ」
「しろさん」
突然そう呼びかけられ、再び驚いた。
「それはわたしのことかな?」
彼は少し神経質なしぐさで眉をひそめた。
「『しろ』以外読めません」
「……ああ、そうか」
玄関口に掛けてあった表札のことだろう。「しらはぜ」と教えてやった。
「白波瀬敦夫(あつお)だ。きみは?」
彼は濡らしたガラス玉のような目で白波瀬を見上げた。
「僕は四辻(よつじ)整司です」
2018-10-03