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89番目の駅 ―3―

どこからともなく潮の匂いがただよってくる家だった。
木の建具に、闇夜がゆがんで見えるガラス、色褪せてささくれ立った畳。炬燵には、ほっそりした三毛猫が一匹もぐりこんでいた。
「ねこ」
呟くと、台所から「ミケさんだよ」と返事がある。
すべらかな背に惹かれ、おっかなびっくり触れてみた。猫はぐにゃぐにゃしていてあんまり好きじゃない。でも、冷え切った体にミケさんのぬくもりはやさしくて、ほっとした。
「どうぞ」
台所から戻ってきた白波瀬が、湯飲みに熱い茶を注いでくれる。香ばしい匂いと湯気。台所からは出汁の匂いもする。
「今うどんを作ってる。うどんは嫌いじゃない?」
「はい」
湯飲みを片手にそろそろとミケさんの背中を撫でながら、整司は壁際一面の本棚を見上げた。
フェルマー。オイラー。フィボナッチ。
「しろさんは数学が好きですか」
どんぶりを両手に、台所から戻ってきた白波瀬が、「よくわかったね」と頷いた。
「大学で数学を教えているんだ」
「僕は大学で数学を勉強しています」
「ああ、そうなの? 何年生?」
「三年です」
「二十一か」
「しろさんは」
「いくつに見える?」
「わかりません」
「五十五だよ」
その瞬間、整司の脳裏に閃光がひらめいた。
食べかけのうどんを押しやり、床にあった新聞の束から裏の白いチラシを引っ張り出す。けれど、書くものがない。
「書くもの」
いらいらと言い放つと、白波瀬が目を丸くした。
「え? ……ああ。はい」
渡されたボールペンをひったくり、思いつくままがりがりと書きはじめる。
数字の飛沫。数列の波。どこまでも広がる美しい数式の世界。
思考の海を泳ぎ回るあいだ、整司は時間を忘れた。
やがて我に返ると、炬燵の角を挟んだ隣で、白波瀬が難しい顔をしてチラシの裏を眺めていた。
「……フィボナッチ数列に、素数は無限に存在するか?」
今まで書き散らしていた問題を言い当てられ、驚いた。
「そうです」
「すごいね、いいところまで証明できてると思うよ。どうしてここでやめてしまったの?」
「美しくないからです」
あるところまで書き連ねたら、自分の論理の冗長さが気になりだした。そうなると、もうだめだ。整司の集中力はとたんにぷっつり途切れてしまう。
整司の答えに白波瀬は少しほほ笑んで「そうか、残念だな」と頷いた。
「どこまで言えるか見てみたかったけど、仕方ないね」
たいていは理解してもらえない整司の理屈。でも、白波瀬は整司の気まぐれを責めたりしなかった。
目の前で小さな光がパチパチはじける。新しい数式を見つけたときみたいな眩しい感覚。
整司は思わず炬燵の上に身を乗り出した。
「しろさんは不思議な人です」
「そうかい? そうかな」
「しろさんと僕の年はフィボナッチ数です。しろさんが五十五、僕が二十一。僕は八十九が一番好きですが、五十五も好きです」
「そうか」
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89……。
黄金比につらなる、美しい数列の、美しい数字の関係。
でも、それだけでなく、この人が好きだと整司は思った。
二十一年生きてきて初めて、他人を好きだと思った。
2018-10-10