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89番目の駅 ―4―

そんな出会いから、整司は月に数度のペースで白波瀬の家に通うようになった。
最初に泊めてもらった翌日の帰り際、
「また来てもいいですか」
整司がたずねると、白波瀬は「いいよ」と頷いた。
「整司の来たいときにいつでもおいで。でも、来る前に必ず電話してから来るんだよ」
その一言に、整司は少し身構えた。
「僕のことが嫌いだったら……社交辞令なら、そう言ってほしいです」
うつむき気味に言うと、白波瀬はちょっと首をかしげた。
「どうしてそんなことを言うの?」
「前にそう言われたからです」
整司は淡々と語って聞かせた。
大学に入ったばかりの頃、知人から一緒にコンパに行かないかと誘われた。その日は予定が入っていて断らざるをえなかったが、次の機会に誘ってほしいと言うと、相手は「もちろん」と頷いた。
「また声をかけるよ」
でも、三ヶ月が経っても、半年が経っても、彼は整司を誘わなかった。
後期の授業で彼に会ったとき、整司はどうして誘ってくれないのかと彼にたずねた。彼は決まり悪げな表情で言った。
「あんなの社交辞令だろ」
少し意地の悪い、あざけるような笑いとともに――。
黙って聞いていた白波瀬は、全部聞き終えると、慈しむように目を細めた。
「整は正直で誠実なんだね」
「……?」
よくわからない。褒められたんだろうか。
わからないけれど、白波瀬の声にもことばにも視線にも、不快なものは何もなかった。
白波瀬の目には、自分は「正直」で「誠実」に見えているのか。
そう思ったら、気持ちが軽くなり、うれしくてたまらなくなった。これまで自分に与えられる他人の評価といったら、「我が儘」だの「自己中心的」だの「変人」だのが大半だったから。
うれしかったので、「ありがとう」と言った。不思議と白波瀬の顔は見られなかった。
そんな整司に「ちょっと待ってて」と言い残し、白波瀬はタンスの引き出しから何かを取ってきた。
「電話してからおいでと言ったのは、きみが待ちぼうけしたらかわいそうだと思ったからだよ。でも、電話はもういい。代わりにこれをあげよう。わたしが留守だったら、これを使って」
手渡されたのは錆色の鍵。
そうして白波瀬の家の鍵は整司のものになった。
あんまりうれしかったから、整司は鍵にチェーンを通して首から提げた。白波瀬の家に行かない日も、毎日身に着けている。そして好きなときに白波瀬の家を訪れた。
白波瀬の家では、特別何かをするわけでもない。整司はたいてい数式について考える。
潮と古い家の匂い。海鳴りと、ときどき鉄橋を渡っていく列車の音。ミケさんのひそかな息づかい。白波瀬の家では、他の場所よりもほんの少し時間がゆっくり流れている。
整司が頭の中で数式をもてあそんでいるあいだ、白波瀬はそばで仕事をしたり、本を読んだりしていることもあれば、講義に行ったり、ふらりとどこかへ出かけてしまうこともあった。
必要以上にかまわれることはないけれど、受け入れられている。そう感じる。白波瀬のそばにいると、家族といるより、一人で過ごすより、呼吸がしやすいみたいな気がした。
桜が散り、新緑の上をさわやかな風が渡る頃になると、白波瀬は時折整司の勉強を見てくれるようになった。
白波瀬は地方の大学で数学を教えながら何冊もの研究書を出している、素数の分野では著名な数学者だった。大学の指導教官は、整司の言動にどこか引いているふしがあって、研究指導も熱心とはいえない。就職活動をしていないのだから、卒業後は院に進むしかないのだが、彼との相性の悪さから、いまいち積極的になれないでいた。けれども白波瀬と話していると、自分が数学が好きなのだということを実感させられる。
「しろさんといると、好きなものが増えます。しろさんが好きになりました。ミケさんも好きになりました。数学も前より好きになりました」
そう言ったら、白波瀬は完爾と頷いた。
「大学院に進んだらいい。なんならうちの院に来てもかまわないよ。きみが通っているところよりも、大学のレベルは少し下がってしまうけれど」
夏、書き上がった論文を見せると、白波瀬は満足そうに頷き、「これを一部もらってもいい?」とたずねた。
「ぜひ見せたい人がいるんだ」
白波瀬には、整司以外にも数学好きの友達がいるのだ。
羨ましいなと思い、ちょっとだけいやな気分になった。自分には白波瀬だけだ。なのに、白波瀬には自分以外にも親しい人間がいる。それがひどくつまらないことのように感じた。
少しでも白波瀬の気持ちが引けるのなら。彼が喜んでくれるのなら……。ただそれだけの気持ちで論文を渡した。
それがこんな結果になるなんて。
整司は両手で強く顔をこすった。
――これは白波瀬先生が直々に向こうの大学にかけ合ってくださったお話なんだよ。
「うちの院に来てもいい」なんて言ってくれたのに。
整司はそのつもりで、秋口に白波瀬の勤務先の大学の院試を受けた。合格通知ももらって、すっかりその気になっていたのに、アメリカなんて――どうして?
潮の匂いに包まれた、海鳴りと電車の音の聞こえる家。
八十九番目の駅には、整司が初めて好きになった、大切なひとがいる。
それがどれだけ整司の気持ちを支えてくれているか。どれだけ整司にとって重要なことか。どれだけ整司をとらえているか……。
白波瀬はわかってくれていると思っていたのに。
2018-10-17