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89番目の駅 ―5―

夕闇に沈む海辺の家は、どことなくよそよそしい顔で整司を迎えた。
そんなふうに感じるのはこの家に来るようになって初めてで、玄関の外で少しためらう。最初に訪れたときから、この家はまるで古い家族のような顔をして整司を迎え入れてくれたのに。擦りガラスの奥にぽつりと滲む光が見えなければ、そのままそこで立ち尽くしていたかもしれなかった。
家の奥の人の気配。白波瀬の気配。それだけで張り詰めていた心がぐずぐずと崩れていくみたいだ。泣きそうになる。小さな灯りに吸い寄せられるように呼び鈴を押した。
「はい?」
少し硬い白波瀬の声が遠くから答える。日が暮れたら出歩く人もいない田舎町だ。
整司は背筋を伸ばした。声が震える。
「四辻です」
「ああ、ちょっと待って」
目の前の木製の引き戸がからりと開いた。
「いらっしゃい」
「……っ」
いつもと変わらない白波瀬の顔を見たとたん、整司の中で何かが崩壊した。我慢できない。衝動のまま目の前の白波瀬に抱きつく。
「わっ、……っと」
よろめいて半歩後ずさった白波瀬は、整司の肩を支えると、慈愛深い声でたずねた。
「整、どうしたの」
「……っ、……」
「……そう、何かつらいことがあったんだね」
黙って首を振る整司の頭を、肩を、白波瀬はなだめるしぐさで撫でる。
そのやさしさがうれしく、けれど、理不尽な扱いを受けている気分になった。「つらいこと」なんて……他でもない白波瀬のしたことに傷ついたのに。
「しろさんのせいです」
一度口にしたら止まらなくなった。自分を抱き込む胸を拳で叩く。
「しろさんは僕がきらいなんですか。だからいなくなっても平気なんですか。僕なんか遠くへいってしまったらいいと思っているんですか」
自分を愛してくれながらも、いつも何かを遠慮している両親のように。
白波瀬は目を見開いた。
「せ……、」
「!」
とっさに彼の口を手でふさぐ。聞きたくなかった。もし本当に「嫌いだ」なんて言われたら、生きていけないと思った。苦しい。どうしていいかわからなくなる。嗚咽が漏れる。そうなったらもう止まらなかった。癇癪を起こした子どものように声を上げて泣いた。白波瀬は黙って整司の背を撫でてくれた。
骨張った大きな手に背中を撫でられているうちに、胸の中の嵐が少しずつ収まっていく。整司の気持ちをどうしようもなく波立てるのが白波瀬一人なら、整司の心をこれほど簡単に落ち着かせてしまえるのもまた白波瀬一人だった。
整司が泣き止むのを待って、白波瀬が口を開いた。
「中に入ろうか」
乾いた指で整司の髪を梳き、気遣わしげに「冷たい」と言う。彼に支えられるようにして家に上がった。
「どうぞ」
炬燵に入ると、いつかのように湯気を立てる湯飲みが差し出された。
膝に乗せたミケさんの背を撫でながら、整司は無言でうつむいた。言いたいことは今にも胸から溢れそうなほどなのに、何から言えばいいのか、その端緒が見つけられなかった。
代わりに白波瀬が口を開く。
「……もしかして聞いたかな」
何をとは言わない。ことばを省いた曖昧な会話は本来整司の苦手とするところだ。けれど、今ははっきりとわかった。それだけ整司の気持ちが白波瀬に、彼のことばに向いているということだ。
こくり、頷く。
白波瀬は、炬燵の角を挟んだ隣りで、小さく息をついた。
「きみのためと思ったんだけど、もしかしてわたしはきみを困らせている?」
静かな問いかけに眉を寄せる。
自分の心の隅々を確かめながらゆっくりと答えた。
「困らせられては、いないと思います」
「そう?」
また頷く。たしかに整司は困ってはいない。ただ……ただ、
「かなしい」
ぽつり、ことばがこぼれ落ちた。
白波瀬が目を細める。
「かなしい……? 不安ではなくて?」
整司はたどたどしくことばを継いだ。
「不安……でもあります。僕は新しい環境に慣れることが得意ではありません。でも、それよりも、かなしいです。今は、八十九番目の駅にはいつもしろさんがいます。でも、アメリカの八十九番目の駅には、しろさんはいません。電車に乗っても、しろさんには会えません。しろさんの家もありません。それは僕にとって、とても、とてもこわいことです。でも、しろさんはそうじゃない。僕がどこに行ってもかまわないんでしょう。それがとてもかなしいです」
「……わたしに会えないのを、さびしいと思ってくれてるんだね」
何かを噛みしめるような顔で、白波瀬はほほ笑んだ。
「たしかにさびしいかもしれないけど……」
「僕はしろさんが好きです」
きっぱりと遮った。彼の目をまっすぐ見上げる。思慮深い大人の眸。大好きな、白波瀬の。彼が何を感じ、思い、何を言うのか、全部この目で確かめたいと思う。
白波瀬は目を瞠っている。
「わたしは、……」
「僕は二十二年生きてきて、誰も好きだと思ったことがありませんでした。家族も、自分も好きになれませんでした。でも、しろさんは好きです。しろさんの家にいるのも、しろさんの声を聞くのも、しろさんと数学の話をするのも、全部好きです。大好きです。それがなくなったら、どうしたらいいのかわからない」
言っているうちにもまた焦燥が募ってくる。耐えきれず、頭を抱えて左右に振った。
「わかりません、わかりません、わかりません! どうしたらいいんですか。しろさんがいないところなんて行きたくない!」
涙と一緒にことばがほとばしる。
「一人にしないで……」
「…………」
白波瀬は呆然と整司を見ている。
そして、どこかが痛むように顔をゆがめた。けれど、何も言ってくれない。
整司は焦れた。炬燵を押しのけ、身も世もなく彼の腕に取りすがった。
「しろさんは僕がきらいなんですか」
「きらってなんかいないよ」
「じゃあ、好きですか」
「……」
白波瀬は答えてくれない。1+1は? そのくらい簡単な問いなのに。
ひどく――どうしようもなくかなしくなって、その首筋にかきついた。ちょっとなつかしいみたいな匂い。それ以上、どうしたらいいかわからず、でも、どうしたいかは知っていた。激情に衝き動かされるまま、彼の唇に唇をを寄せる。白波瀬が目を見開いて固まる。
触れ合った唇は互いに乾いて、カサカサとした感触を残した。
「しろさんが好きです」
間近な目を見つめて言い募る。
「好きです」
どうしてこれだけしか言えないんだろう。どうしてこのことばしかないんだろう。もどかしかった。体の内に溢れる感情を伝えるのに「好き」の一言は短すぎて、整司はまた泣きそうになった。もっともっとたくさん、このひとに伝えることがある気がするのに、言葉にしてしまえばひどくあっけない、たった二文字。
「好き、好きです。好きです、好きです、しろさん……」
お願いだから、そばにいて。
「あなたは僕にとって、水や空気や数字と同じなんです」
なくしては生きていけないもの。
なにより心に欠かせないひと。
「整……」
白波瀬は苦しげに目を伏せた。自らの罪を知る人の、深い苦悩の顔だった。
長い、時間の感覚がおかしくなるほど長い沈黙の後、乾いた指が頬に触れる。
ため息みたいにかすれた声がささやいた。
「整……、わたしはきみの好意には応えられない」
「……っ」
ひゅっと小さく息を飲む。
何を言われたのかわからなかった。白波瀬のことばがバラバラになり、鋭い切っ先で心臓を突き刺す。ただ、自分の気持ちは――自分は白波瀬にとっていらないものなのだということだけ、その痛みで理解した。打ちの
めされる。頭が真っ白になり――。
「……?」
引き戻すように抱きしめられた。
「それでも、わたしはきみが好きだ」
今度こそ、何を言われたのか、整司には本当にわからなかった。
喉の奥から押し出すように、苦しい声で白波瀬が言う。
「きみが好きだ」
2018-10-25