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89番目の駅 ―6―

間近なぬくもりが身じろいで、白波瀬はふと瞼を上げた。夜明け間近の青い光が、古びた部屋を満たしている。
隣りの布団から差し出されたか細い手が、離れかけた白波瀬の手を引き留めた。眠っていてなお、すがるようなしぐさが、白波瀬の胸をせつなくさせる。
幼い表情で眠る青年の頬を指の背で撫でた。肌に張りのない自分の指が整司のすべらかな頬には不似合いで、ふと眉を寄せる。
魅力にあふれた青年だ。若く、素晴らしい才能を持っている。
最初は単純に彼の数学的才能に惹かれた。そのひらめきは「天才」と呼んでいい。導く者さえいればいずれ世に名を知られることになるだろう才能を、自らの手で育ててみたいと思った。
けれど、白波瀬の心を決定的にさらったのは、彼の無垢な子どものような純真さだった。
生きるのに少し不自由で、けれど、本来の彼の魅力はそんなことで損なわれはしない。愚直なほどにまっすぐで、純粋で……自分の気持ちに正直なぶん損をしていて。だからこそ、他人の無理解に傷つけられることも少なくない。そのため他人に対して臆病で、少し頑ななことも知っている。けれど、彼が白波瀬に寄せる信頼と思慕は、無心な赤ん坊が疑いなく母親にすべてをゆだねる姿にも似て、白波瀬の心をせつなく、あたたかく揺さぶった。
彼を愛しく思うようになったのはいつからだっただろう。
四十代半ばで妻を亡くしてから十年余り、数学以外に興味を持てるものもなく、諦観の中で恬淡と生きてきた。そんな日常に、新鮮な感動とともに飛び込んできた整司は、白波瀬の世界を鮮やかにひっくり返した。彼の不器用な、はにかんだ微笑ひとつが見たくて、いつしか訪問を心待ちにするようになった。
自分の気持ちを自覚すると同時に、それを憎んだ。彼の倍以上の年齢を重ねていながら、年甲斐もなく恋をする自分が滑稽で疎ましかった。だが、同時に安堵もした。焦がれる相手に劣情を向けなくても、何も求めずとも、望まずとも、愛せることに感謝した。
報われたいとは思わなかった――いや、正直に告白するなら、思うことを自分に禁じたのだ。ただ、許されるかたちで、許される限り、自分の持っているすべてで彼を支えようと決めた。少しでも彼が生きやすいように。その才能を無駄にしないように。
「整……」
すまない、と、泣き疲れた寝顔に声にならない声で詫びる。
彼の求愛を拒んだことを、間違っているとは思わない。彼の感情は未分化で幼く、本当の恋なのかも見定めがたい。それはきっと彼自身にも同じことだ。今、白波瀬が彼の気持ちに応えたら、彼の世界は白波瀬と二人きりで閉じてしまう。前途ある青年を、親以上に年の離れた自分が縛り付けていいはずがない。真実彼のことを思うなら、「勘違いだよ」と諭すことで――たとえそれが本当に恋愛感情だったとしても――踏み止まらせてやるのが、年長者であり指導者である白波瀬の役目だった。
けれど、最後の最後で自分は誤った。
全身で自分を「好きだ」と訴える彼を、愛しいと思わずにいられなかった。伝えずにはいられなかった。きみは本当に必要な人間なのだと、本当なら自分こそがそばにいてほしいのだと、伝えたい衝動が理性に勝った。
罪悪感に耐えるように、じっと目を瞑る。
互いに好きだけれど、恋人にはならない。
そんないびつで曖昧な関係が、いくらも保つとは思えないが……。
好きだと言いながら拒む白波瀬に、当然のことながら整司は混乱した。普通に考えても理解しがたいだろう。ましてや観念的な情緒を理解しにくい彼ならなおさらのこと。
整司は泣いて、わめいて、地団駄を踏み――それでもひどい男に「好きです」と繰り返した。泣き疲れて眠るまで。
すまないと、繰り返し繰り返し心の内で詫びる。
かわいそうに思った。つらい思いをさせていることもわかっていた。だが、白波瀬のために彼が何かを喪うことがあってはならない。ただそれだけを思って耐えた。
彼が本当に後悔しないのなら、すべてを投げ打つ覚悟は、白波瀬の側にはとっくにあるのだ。
五十余年の信念と自尊心を打ち捨ててもかまわない。今までの人生も、これからの人生も、彼のためならすべて与えて悔いはない。悔いはない……。
「整、整……」
目頭が熱くなり、彼の小さな頭をかき抱いた。
「しろさん……?」
目を開けた整司が、ぼんやりと白波瀬を見上げる。
そして母親が幼い子どもにするように、白波瀬の白髪交じりの頭をやさしく撫でた。
「しろさん、泣かないで」
慈愛のこもった、あやすような声で言う。
泣かないで……。
「整」
すべての懊悩を押し込め、白波瀬は無理に笑って頷いた。
悩むのも悔いるのも一人のときでいい。
今はこの愛しい青年のためにできる、最良のことだけを。



「来年の九月からサバティカル休暇を取ろうと思う」
炬燵で朝食をとりながら、白波瀬が言った。
耳慣れない単語。用意された朝食にも手を付けず、炬燵布団の中で丸まっていた整司は、その陰から視線だけを投げた。
ことばの意味を取り損ねたことが伝わったのだろう。白波瀬は淡々と説明した。
「研究のための長期有給休暇のことだよ。大学教員なら数年に一年認められる。わたしもそろそろどうかと勧められていてね」
白波瀬は憎らしいほどいつも通りだった。きれいな所作で操る箸が、焼き魚の身をほぐしていく。昨夜の愁嘆場など、まるでなかったかのように。
こんな老獪さも持ち合わせているのだと、こんな白波瀬は知らないと、整司はまた少し涙をこぼした。昨夜から泣き続けた目元はすっかり腫れ上がり、鬱陶しくてしかたがない。
「だから何ですか」
低くかすれてぶっきらぼうな口調も意に介さず、白波瀬は物静かにことばを継いだ。
「いい機会だから、整の留学の初年度に合わせて一年、アメリカに一緒に行くよ」
「しろさんも一緒に……?」
思わず体を起こす。
「一緒に行ってくれるかい」
たずねられ、戸惑った。
見知らぬ土地――しかも見知らぬ国だ。英語もそれほど得意じゃない。たとえ白波瀬が一緒だとしても、不安のほうが大きかった。
「整。きみが向こうの生活に慣れるのは、楽なことではないと思う」
真剣な声で白波瀬が言う。思慮深い目がこちらを見据える。
「でも、きみの才能はきっと向こうのほうが適正に評価されるよ。きみ自身も、たぶん向こうのほうが生活しやすいんじゃないかと思う。十年後、二十年後を考えたら、きみはアメリカに行くべきだ。わたしにその手助けをさせてほしい」
かき口説く口調で言われ、整司は視線をさまよわせた。
不安はまだ心の中にある。生きていく限り、消えることのない不安。けれど、それは日本にいても同じことだ。環境が変わるたび、つきあう相手が変わるたび、自分は戸惑い、不安になる。それを乗り越えていかなくてはならないのは、どこにいても同じことだ。
でも、アメリカに行けば白波瀬が一緒にいてくれる。
初めて自分をまるごと受け入れてくれたひと。可能性を信じてくれるひと。「好きだ」と言いながら整司を拒む、ずるいひと。でも、それでも、整司にとって、だれより大切な、大好きなひと……。
彼と離れないで済むのなら、どんなことでもしようと思った。彼が信じてくれるという、自分の可能性を信じてみる気になった。
頷くと、ほっとした表情で白波瀬がほほ笑む。
「きっと、きみをしあわせにするよ」
……本心から言ってくれるのなら、もっと違う意味で言ってほしいことばだったけれど。
でも、白波瀬が笑ってくれるならいいかと思った。やさしい目で見つめていてくれるなら、そばにいてくれるなら……。

すり寄ってきたミケさんがニャアと鳴く。
ゴトゴトと音を立て、電車が鉄橋を渡っていく。
低い海鳴り、海鳥の声。
八十九番目の駅の海辺の家は、今日もやさしいぬくもりに満ちていた。
2018-11-01