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楽園はこの手の中 ――『天国に手が届く』SS

平地でも秋の気配がただよいはじめた九月の週末、内藤ジムで落ち合って一汗流した後の食事時だった。
いつものようにウーロン茶のグラスを傾けながら、小田切が切り出した。
「佐和、次の三連休だが、」
「うん、どこ行く? 紅葉はまだちょっと先だしなぁ」
いつもの誘いに、いつもの返事。佐和のほうはそのつもりだった。
九月なかばの高山は、夏山と紅葉の谷間の時期で、束の間、ひっそりとした秋の静けさに包まれる。連休とはいえ、ハイシーズンに比べれば、そこまで人出は多くないだろう。この時期ならば、普段人混みを避けて登らないメジャールートもいいかもしれない。具体的にはどこがいいだろう……。
ひとしきり山に思いを馳せていたが、気づくと小田切から反応が返ってこない。
「?」
視線を向け、彼の顔を見て初めて佐和は自分の失敗を悟った。こちらを見る恋人の目が、わずかに苦笑していたからだ。
(しまった……!)
ついいつもの調子で、山への誘いだと思ってしまった。でも、違ったのだ、たぶん。今のは、もしかしたら、いやきっと――。
だが、焦った佐和が口を開く前に、小田切は最初からそのつもりだったかのように次の言葉を口にした。
「そうだな。せっかくの連休だし、のんびり表銀座でも歩きに行くか。おまえ、最近とくに忙しくしてただろう」
そして彼と山に行けるとなると、佐和は頷かずにはいられないのだ。
「……うん」
表銀座――長野県安曇野市の登山口から燕岳へ登り、標高二五〇〇メートルを超える稜線をたどって槍ヶ岳へと至る縦走路の通称だ。槍や穂高の眺めがうつくしく、そのぶんハイシーズンの休日には避けたい人気ルートでもある。比較的静かに歩けるなら行きたいに決まっている。
でも今回ばかりは、頷きながら、自分の鈍感さにちょっとへこんだ。


佐和が小田切と恋人になって一月。互いに気持ちを伝え合い、一度はからだを繋げたにもかかわらず、二人の日常にはこれといって大きな変化はなかった。
いくら山に登るために生まれてきたような二人でも、ひとたび下界に下りれば普通の会社員だ。同じ社内で同じプロジェクトに携わっているとはいえ、営業の小田切と開発の佐和では就業中に顔を合わせる機会は多くはない。加えて、週末には以前と同様、山やジムへ一緒に行き、心身共に充実した時間を過ごす。ふと我に返ってみると、何が変わったのだろうと思ってしまう有様だ。
強いて変わった点を挙げるなら、小田切が佐和に向ける視線は、よりやわらかく穏やかになり、それでいて恋をしている人間独特の熱っぽさを隠さなくなった。それは自分も同じかもしれない。たとえばジムの難ルートを登る小田切に見惚れているとき、自分の視線が山仲間の範疇を超えた熱を帯びていることに気づく。そして、それを許されている幸福を噛み締めるのだ。
だが、変わったと言えば本当にそのくらいだった。佐和はそれで満足していた。ごまかさずに言えば、正直ほっとしている部分もあった。
制御不能な切迫した情熱に突き動かされ、稜線のテントでからだを繋げた槍ヶ岳での一夜。狂おしい記憶は、平地での日常に戻り、冷静になった今や、佐和の羞恥心を強烈に刺激する。
後悔しているわけではない。伝えられないと思っていた気持ちが通じ合ったよろこび。小田切が自分を選んでくれたという泣きたくなるような幸福感。もしあの日をやり直すことができるとしても、佐和はきっと、あのとき、あの場所で、彼を求めずにはいられないだろう。
だが、なにもあんなところで……と、佐和の中の理性が呟くのだ。冷静に考えれば下山後でもよかったはずなのに、互いにどれだけ切羽詰まっていたのか――。思い出すだけで、叫びながらそこらじゅう走り回りたくなってしまう。
おそらく小田切も同じなのだろう。あのときは翌日の出発を遅らせたせいで最終的に時間の余裕がなくなってしまい、下山後まっすぐ帰宅した。だが、恥ずかしい記憶というのは、時間が経てば経つほどいたたまれなさが増すものだ。直後にきちんとやり直せなかったせいで、あの一夜はますます触れにくい記憶になってしまっていた。
不安なわけではない。もともとザイルパートナーとして惚れ込んだ相手だ。山を介した価値観や世界観、死生観は、ぶれることなく、深いところで二人を結びつけている。でも、だからこそ、わざわざ恥ずかしい記憶を掘り起こさなくてもという気持ちも湧いてしまうのだ。
小田切のことは恋愛対象として好きだ。
けれど、恋愛感情だけで結ばれているわけではないぶん、タイミングを見誤ると、仕切り直すのは相当難しいらしかった。


(……でも、たぶん、小田切はやり直そうとしてくれてたんだ)
連休初日、小田切の車で登山口に向かいながらも、佐和はこれから登る山に集中できないでいた。
車は既に松本の市街地を越え、安曇野の長閑な風景の中を走っている。だが、北アルプスの雄大な尾根を眼前にしてさえ、佐和の意識は運転席の恋人へと向かっていた。
(俺、こんなに鈍かったかな……)
我ながら、あの日の反応は、人並みに恋愛を経験してきた大人にしては幼稚すぎた。それだけ小田切との山行が楽しくてしかたないということでもあるのだが、言い訳にもならないだろう。
(せっかく小田切が切り出してくれたのに)
きちんと応じていられたら、今頃どうしていただろう。映画でも見て、買い物でもして……いや、そんなステレオタイプなデートは自分たち二人ではありえない。登山用品店をひやかして、内藤ジムで汗を流し、あとはホテルか、それともまだ見ぬ彼の自宅か……少なくとも山に向かってはいなかったはずだ。
山を目の前にして憂鬱になるなど、普段の佐和なら絶対にない。けれど今、佐和ははっきりと後悔している。そんな佐和の気分を反映したかのように、北アルプスの尾根にも憂鬱な雲が垂れ込めていた。それをじりじりした気持ちで見つめる。ラジオの天気予報を聞く限り、この三連休は秋晴れを望めそうにはない。
やがて、最初の雨粒がフロントガラスに落ちてきた。その瞬間、佐和は心を決めた。隣の恋人に声をかける。
「降ってきたね」
「ああ」
「小田切、今日、どうしても山に登りたい?」
「――」
質問の意味がわからないという表情で、小田切がちらりと視線を投げて寄越した。
「……あのとき、おまえ、山よりおまえが大事って言えって言っただろ」
稜線の夜の睦言に、なめらかだったハンドリングが一瞬乱れる。
そのまま車は道の路肩に停車した。フロントガラスに増えていく雨粒から、佐和は視線を外した。
「ごめん。俺、今は山よりおまえのほうがずっと気になってる」
小田切の顔は、どうしても見られなかった。


北アルプスの麓の温泉街で、小田切は車を停めた。何本か電話をかけ、さらに移動する。
彼が次に車を駐めたのは、山間のリゾートホテルだった。チェックインを待つついでに、ロビーラウンジで昼食をとる。その間、小田切はいつにも増して寡黙だった。
やがて通されたのは、南東向きの開放的な部屋だった。大きな窓からは、常念岳と蝶ケ岳の頂を目の前に望むことができる。
「小田ぎ……ちょっ、わっ」
ポーターが出て行くなり、凄まじい力でベッドに引き倒され、佐和は慌てた。
「いきなりかよ!」
「おまえが煽るからだろうが!」
まるで飢えた獣の咆吼だ。山での小田切は基本的に寡黙で無愛想だが、こんなふうに声を荒げるのはめずらしい。思わず抗議の声も引っ込む。
「……ふっ、」
のしかかられ、キスを貪られる。「喰われる」という表現がぴったりだった。やや荒っぽいが、不快なわけではない。
(ちゃんと、恋人として求めてくれてる)
そう思うと、言い表せない安堵と興奮に満たされる。
積極的に応え、深く舌を絡め合った。徐々に高まっていくからだとは裏腹に、ようやく最初の動揺から立ち直る。
「小田切」
自分の首筋に歯を立てている愛しい獣の髪に指を差し込み、混ぜ梳いた。
「悪かったよ。……けど、今度はさ、ちゃんと落ち着いてしたいんだ」
髪に口づけるようにしてささやくと、彼はぴたりと動きを止めた。熱された黒曜石の眸が佐和を射る。視線を合わせ、真情を込めて言った。
「今度こそ落ち着いて、恋人らしく、きみとしたい。――しよう?」
小田切は一声低く唸って、もう一度佐和の鎖骨に噛みついた。


意識がゆっくりと浮上していく。幸福な倦怠感とからだの軋み。目を開けると、南西向きの部屋は夕暮れ色に染まっていた。カーテンを閉め忘れていたらしい。
からだを起こし、床に放り出されていたベッドリネンを適当にまとって、佐和は窓辺に立った。常念岳の頂にかかる低い雲間から茜色の光が射し込んで、山と雲に照り映えている。神秘的なまでにうつくしい夕焼け空だった。
かろうじて顔を見せている蝶ケ岳の頂を眺める。もし予定通りに山に登っていたなら、今頃はあの山並に連なる稜線上にいたはずだ。だが、心の隅々まで見渡しても、一片の後悔も見あたらなかった。
山はいつだってそこにある。佐和が登っても登らなくても、こうして麓から眺めているときも――いつかこの世からいなくなる日が来ても、あの稜線は変わらずうつくしい。佐和はそれを知っている。だから今日、今でなければならなかった小田切との進展を優先したのは、佐和にとっては当然のことだ。
実際、自分の選択は間違っていなかったらしい。山に焦がれ続ける佐和の人生の中でも、これほど満ち足りた気分で山の麓から頂を眺めることはそう多くはないだろう。目の前に山があれば登りたくなる。佐和も小田切も、元来そういう生き物だ。
「佐和」
名前を呼ばれて振り返ると、ボトムだけ身に着けた小田切がコーヒーのカップを両手に立っていた。
「ありがとう」
受け取って、佐和はほほ笑む。
「あのときも、翌朝コーヒー淹れてくれたよな」
照れくさいのか、小田切は口元で小さくほほ笑み返しただけだった。「寒いだろう」と佐和が開けていた窓を閉める。
「……体はつらくないか」
遠慮がちな問いに、佐和は笑った。
「痛くないって言ったら嘘だな」
「……」
「そんな顔するなよ。そんなの気にならないくらい、満ち足りてるんだから」
カーテンを閉じ、小田切に向き直る。彼の首に両腕を回す。
「俺の『天国』は山の上だけど、楽園ならこの手の中にあるんだなって思ってた」
瞠目した小田切は、やがてやわらかな笑みを浮かべた。敢えて言葉にしなくとも、彼も満ち足りているのだとわかる表情だった。
やさしい口づけが下りてくる。
佐和は目を閉じ、恋人のキスを味わった。
2013-10-31
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