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きみとの日々に、ピアノを ――『てのひらにひとつ』SS

ピアノを買おう。
きみとの新しいはじまりの記念に。

その貼り紙は、まだ馴染みの薄い通勤路の道端、民家の塀に貼られていた。
「ピアノ譲ります」
枯れた達筆が目に飛び込んできて、つい帰宅の足を止めた。
当直から翌日午前の外来まで、連続二十八時間の勤務明けだ。白衣を脱ぐまでは睡魔も疲れも忘れていられるが、正直四十を過ぎた体は限界、今すぐここで寝てしまいたいくらいだった。
しかし、待て。ブラックアウトにはまだ早い。
貼り紙の文字に目を凝らす。紙はちょうど満開の桜の下に貼られていて、散り初めの薄紅色がはらはらと視界を舞った。
東洋ピアノ製フリッツクーラー(アップライト)。約四十年前のもの。お値段は「応相談」とある。
ふむ、と無意識に顎下を撫でた。
(聞いたことのないメーカーだな)
とはいっても、私が知っているピアノメーカーなど、ヤマハとカワイ、スタインウェイくらいのものなのだが。そもそも四十年前のピアノというのは、今でも支障なく弾けるものなのだろうか。
一週間前、同居を始めたばかりの恋人――いや、もう「家族」と呼ぶほうがふさわしいだろう。家族の顔が脳裡に浮かんだ。和音くんならわかるかもしれない。きいてみればいいのだが、少々思うところがあってためらう。
貼り紙の前で立ち止まること数分。ふむ、ともう一声。心を決めた。横の門柱の呼び鈴を押す。
「ごめんください。表の貼り紙のことで、お話をうかがいたいのですが……」
はーい、と、家の奥から、母親くらいの女性の声がした。

その日、私は柄にもなく浮かれていた。向かい合って朝食をとっていた和音くんが、「何かいいことがあったんですか?」とたずねたくらいだ。
「そうだね、これからある予定なんだ」
「これからですか?」
「きみが帰ったら話します」
ふふっと口の端から笑いが漏れて、これは確かに浮かれているなと気がついた。締まらないが、たまには勘弁してもらおう。
不思議そうな顔をしながらも、「じゃあ、楽しみにしてますね」と言い置いて、彼は仕事に出て行った。彼はこの春から、市役所の監査事務局に任期付職員として勤めている。
一方の私は、新しい職場に移ってから二度目の休みだ。和音くんを見送ってから、窓を開け、家中の掃除をした。とくに応接室は丁寧に、普段はしない水拭きまでして磨き上げる。
出会って十年、私が僻地医療拠点病院に移るのを期に、ようやく一緒に暮らせることになった。私たちの新居は築二十余年の借家だ。一階にリビングダイニングキッチンと応接室、二階に洋室が一室と和室が二室。南側に小さな和風の庭があって、一日中明るいのがいい。でも、越してきたばかりの家は、まだ少し他人顔だ。
昼前にインターネットの通信販売で頼んでおいた補強用のパネルが届き、昼過ぎには待ちかねたピアノが届いた。
つやつやと光るマホガニーの木目はうつくしく、猫足にデザインされた二本の柱は優雅なカーブを描いている。運んできた運送業者が、養生を解きながら、「いいピアノですね」と褒めてくれた。
ピアノ専門の運送業者がいることを、私は今回初めて知った。クリーニングや調律という作業をする専門業者がいることも。
すべてこのピアノの元の持ち主が手配してくれたのだった。

ピアノの元の持ち主は、七十代の夫婦だった。
娘のために買ったピアノを、娘の結婚後もずっと大切にしていたが、娘夫婦がマンションを購入したのをきっかけに、手放そうと決めたという。都会の狭いマンションでは、アップライトのピアノは大きすぎ、音も迷惑になるからだそうだ。
「あなたは趣味で弾かれるの?」
ご婦人にたずねられ、私は、「いえ」と正直に答えた。
「弾くのは私ではなくて、こ、……家族です」
「あら、じゃあ娘さん?」
悪気のない、この年代の女性にはありがちな好奇心だった。ほほ笑んで、「いいえ」と答えた。
「実は、長くつきあってきた人と、今度一緒に住むことになったんです」
奥さんなのねと言われそうな気がして付け足した。「籍は入れていないんですが」。
「同棲……いえ、事実婚というやつね」
さらりと受け入れられ、ちょっと驚いた。そうか。なるほど、そう言えばいいのか。
実は転勤早々、医局長はじめ周囲から恋人の存在や結婚観について、根掘り葉掘りきかれ続けて困っている。次からはそう言おう。光明を差し出してくれたご婦人に笑みを深くして頷く。
「そうですね。そう言うのが一番ぴったりくる気がします。……その、同居の記念に指輪を贈ろうかと思ったんですが、相手がそういった装飾品には興味がなさそうで……」
話しながら、和音くんの顔を思い浮かべた。
和音くんのやさしく真面目で控え目な性格は、三十歳になった今も変わらない。ただひとつ、何事にも手を伸ばす前に諦めがちだった点だけは、私との仲を御家族に打ち明け、社会人として独り立ちし、公認会計士になり……年齢と社会経験を重ねるに連れ、自然と変わってきたけれど、それでも物欲とは無縁の性格だ。指輪についても、それとなくほのめかしてみたところ、遠回しに断られてしまった。昨年やっと研修医期間を終えたばかりの私に遠慮している部分も大きいのだろうが。
「ただ、ピアノが好きな人なので、喜んでもらえたら、と」
「あらまあ。では、結婚指輪の代わりなの!」
ご婦人の表情が輝いたように見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
とにかく、ご婦人のはからいで、私はこのピアノを破格の値段で譲り受けることになったのだった。
中古ピアノの相場など、これまで気にしたこともなかったが、研修医に毛が生えた程度の貧乏勤務医が即決できる値段など微々たる額だ。後で気になって調べてみて、包んだ額が少なすぎることを知った。すぐさま連絡を取り、せめてもう幾許かお支払いしたいと申し出た。だが、彼女はそれを断り、代わりに長年世話になってきた楽器店でのクリーニングと調律を勧めてくれた。
「今度はあなたが、あなたの大切な人と、このピアノを大事にしていってくださったらうれしいわ」
――そんないきさつで、このピアノは新品同様のうつくしさで、私たちの家の応接室に鎮座することになったのだった。
運び込みとともに一度調律はしてもらったが、楽器が部屋に馴染んだ頃に、もう一度来てもらう手はずになっている。部屋の温度や湿度といった微妙な変化で、音色も変わってしまうのだそうだ。楽器は奥が深い。
一番に弾くのは和音くんと決めていたが、どうしても気になって、そっと蓋を開けてみた。臙脂色のカバーを外すと、白と黒の端正な鍵盤が現れる。とても四十年前のものとは思えない。
少し離れて、応接室の壁際に収まったピアノを眺めた。不思議な感慨が胸に押し寄せる。
和音くんと出会った十年前、私はいろんな意味で行き詰まりを感じていた。仕事を辞めて医師になりたいという希望を通した結果、恋人には見捨てられ、父親からは勘当同然の扱いを受けた。だが、受験勉強は、仕事に時間を圧迫されて思うにまかせず、成績も上がらない。無理かもしれない。心のどこかでそんなことばがちらつきかけていた。
そんな窮地で和音くんと出会い、恋をした。彼との出会いが私を再び奮い立たせ、医師の道へと導いた。遠距離恋愛を乗り越えた恋は十年続き、今、「家族」として一緒に暮らすまでになっている。
潔癖なほど真っ白だった彼を相手に、不実をはたらいたことは誓ってない。けれども一方で、十年、二十年先の未来を誓うことにはためらいがあった。
もちろん気持ちはずっとそのつもりでいた。だが、気持ちは言葉やかたちにしたとたん、束縛にもなってしまう。まだ社会をよく知らない、年若い彼にとっての十年は、既に三十を過ぎていた私にとってのそれとはまったく意味が異なるだろう。未来ある若者を縛り付けたくない。年長者ゆえの配慮と臆病に屈し続けてきた。
けれど、十年。和音くんは、出会った頃の私の年齢に近づき、私は人生の折り返しを過ぎた。そのあいだ、彼の愛は変わることなく私に寄り添い続けてくれた。
「そろそろ、いいんじゃないかと思うんだ」
ピアノに向かって話しかける。
「さすがにもう、彼は私の一生の伴侶だと言っても許されるだろう?」
これからの十年は、おそらく今までの十年以上に障害や困難が立ちふさがるだろう。親は老い、彼も私も「結婚」の呪縛に対する言い訳を失っていく。彼の御家族に対してだけではない、周囲にも曖昧にしておけなくなるときがきっとくる。そのとき、「彼は私の一生の伴侶です」と胸を張って言いたい。
四十余年、鳴り続けてきたピアノ。きちんと手入れをし続けていれば、あと同じくらいは充分に鳴り続けるのだそうだ。あと四十余年。おそらく私の寿命が尽きる頃。私たちの「一生」に寄り添ってくれる証人として、私はこのピアノを求めたのだった。

「帰りました」
午後六時半。いつもより気持ち早めに、和音くんが帰ってきた。
「お疲れさま」
玄関まで迎えに出て、鞄を受け取る。と、靴を脱いだ彼は足元から視線を上げ、開口一番にたずねた。
「それで、いいことは起こったんですか?」
一日気になっていて、と笑う。きっとそれを確かめるために、急いで帰ってきたに違いない。
容貌は成長から成熟の域に達し、スーツの似合う一人前の男性になったけれど、こういうときの表情は出会った頃のままだ。愛おしい気持ちが胸に渦巻く。それを視線に込めて頷いた。
「うん。今起こっているところだね」
「今……?」
不思議そうな彼に、「目を閉じて」と囁く。
「こうですか?」
疑いもせずに目蓋を下ろす彼がかわいい。思わず軽いキスを落とすと、目を開けた彼が、「拓道さん」と声音で抗議を表した。
「ごめん。きみがあんまりかわいくて」
「もう、バカにしないでください」
「ごめん。もう一度やり直させて」
再び目を閉じた彼の手を引き、応接室まで連れて行く。
「もういいよ。目を開けて」
素直に従った彼は、そのまましばらく声を失った。
やがて一歩、ピアノに近づき、
「……これ、どうしたんですか……?」
呆然と私を振り返る。
彼の目を、正面からとらえた。
「指輪の代わりです。私たちの新しいはじまりの記念と、きみへの気持ちの証に」
「……」
彼はまだ呆然と、信じられないような表情で、私とピアノを見比べた。
もう一歩、ピアノに近づき、おそるおそる鍵盤に触れる。
ぽーんと、ふくよかな丸い音が空から降ってきたように響き、余韻を残して消えていった。楽器に詳しくない私にすらわかる、伸びやかな音だった。
「受け取ってもらえますか?」
振り返った彼の頬を、涙がほろりと転がり落ちる。笑って頷いてくれる彼は、今まで見てきたどの表情よりきれいだと思った。
「ありがとうございます。僕も何か、考えますね」
「だったら、これから休みの日には、これで何か弾いて聴かせてください」
考えるより先に出てきたことばに、彼はちょっと目を見開いた。
「……大変だ、練習しなくちゃ。もう十五年、まともに弾いてません」
深刻な顔で言うから、笑ってしまった。
「大丈夫。時間はたっぷりありますよ。たぶん、あと四十年くらいは」
彼ははっと私の顔を見た。意図は正しく伝わったのだろう。ほほ笑むと、彼はほろりと涙をもう一粒流した。
「……そうですね。時間は、たくさんあるんでした」
うつくしい涙と笑顔に、もう先ほどのことばを撤回したくなる。
四十年では飽き足らない。
祈らずにはいられなかった。
私たちの「一生」を見守るこのピアノと、できるだけ長く、共に人生を歩めるように。
私たちの「一生」を彩るやさしい時間とうつくしい音が、できるだけたくさん積み重なるように。
2015-04-06
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