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天国はまだ遠く ――『天国に手が届く』SS

耳が痛くなるような無音の中で、必死に音を探している。
自分の鼓動。呼吸音。血管を血液が流れる音。隣で横になっている男の呼吸音。時折、シュラフがこすれる音。
数メートル先で真っ白な牙を剥き、ごうごうと猛りくるっているはずの嵐の声は、ぶ厚い雪の壁に阻まれて、遠く小さく、羽虫の唸りのように聞こえるだけだった。換気のために開けた小さな穴から忍び込んでくる冷気だけが、外の現実を思い起こさせる。
ブリザードの猛威から逃れ、雪洞内に張ったテントの中は、周囲から切り離された異世界だった。
音も、光も、冷気すらも閉ざされた空間に二人。一日二度の食事と排泄以外はずっと横になっている。
体力を温存するためとはいえ、いつ終わるともしれない籠城は、体よりも心に堪えた。標高が高く、空気が薄いこともあいまって、精神的にじわじわと、だが確実に削ぎ落とされていくのを感じる。
この雪洞に籠もって二日――おそらく二日のはずだ――既に時間の感覚も、生の感覚さえも揺らぎはじめているのを、佐和ははっきりと感じていた。
「佐和」
何時間かぶりに――実際には数分ぶりかもしれないし、ひょっとすると数日ぶりかもしれない――小田切が声を発した。
(よかった、まだ生きてる)
最初に思ったのはそれだった。
実のところ、小田切の声は「生きている」どころか、普段と変わらない。はっきりとした意思をもち、落ち着いている。その大地に根ざしたような力強さは、この非日常の場面において、いっそ感動的ですらあった。
(さすがだな……。おまえはきっと生き残れる)
――さて、自分はどうだろう?
一言応えるまでに、それだけの思考が脳内をめぐった。
凍えた唇を閉じたまま、佐和は「ん?」と短く応えた。
雪洞内は外ほど気温が下がらないとはいえ、当然のように氷点下だ。口腔の粘膜から体温を奪われるのを防ぐため、なるべく口は開けたくない。
それでも、佐和の返答は、自覚よりずいぶんまともそうに響いた。それがこの場では異様に感じられる。
(――いや違う。何を考えてるんだ)
佐和はすぐさま否定した。
(「まとも」、大いに結構じゃないか。俺はまだ正常でいられてるんだ)
それを「異様だ」と感じてしまう自分の心のありようこそがおそろしい。
胸中は、取るに足りない葛藤にぐらぐらと揺れていた。だが、そんな心情とはうらはらに、佐和の返事は小田切にもいつもどおりに聞こえたらしい。ほっと、吐息だけで笑う気配がある。
彼の気持ちは痛いほどよくわかった。人間が住む世界を遠く離れた山の上、嵐の中に閉じ込められて、耐えているのは自分だけではない。隣に生きた仲間がいる。他の誰より、場合によっては自分よりも信じられる相手だ。それだけのことが、なんと心強いことか。
そろそろと小田切のシュラフが音を立てた。手でこちらを探っているらしい。シュラフ越し、こつんと彼の手が佐和の手に触れた。
暗闇の向こうで風が唸りを上げている。荒れくるう、見えない猛獣の姿を見極めようとするように、小田切はじっと虚空を見上げて言った。
「決めた。俺は、弓ケ岳の小屋を継ぐ」
小さくも、きっぱりとした声音だった。
「――」
佐和は一拍、息を呑むんだ。それから、ふるえる唇で、「ああ」と、感嘆のような相槌を打つ。
来るべきときがいよいよ来たのだ。彼はあるべきところに落ち着くことを――山に帰ることを決めた。
「ああ。わかったよ」
もう一度頷いた。気持ちが高ぶって涙が出そうになり、必死でこらえた。
少しさみしく感じるのは、彼が一人で決断してしまったこと。
少しかなしく感じるのは、自分ではやはり彼を下界に留めおく楔にはなれなかったのだという事実。
けれども、ふるえるような安堵と歓喜もまた偽りなく佐和の心を占めているのだ。
動きの鈍った指先を叱咤して、佐和はシュラフ越しに小田切の手を握った。実際にはかすかに指先が引っかかった程度だったが、小田切も佐和の手を握りかえしてくれた。そんなはずはないのに、ぬくもりが伝わるような気がした。
外では風が唸っている。

  *

小田切叶のものと見られる遺品が見つかった。
その知らせは、ある秋の日、突然にやってきた。
アラスカ、デナリの南東約二十キロの位置に、「ブロークントゥース」と呼ばれる山塊がある。ムース・トゥースを中心に、六つの山頂をつなぐ、全長八キロにも及ぶ岩の壁だ。その北壁を冬季単独登攀中、小田切叶は消息を絶った。もう十三年前のことだ。以来、彼自身も、彼の遺品も、吹雪の向こうから帰ってきたものは何一つない。
その叶のものと見られるザックが、オーストリアの登山隊によって偶然発見された。遭難当時、滑落地点とされた場所から、数百メートルもずれた岩場だ。周囲に遺体らしきものはなく、半ば氷漬けになっていたザックの一部しか回収できなかったそうだが、現地にはまだ他にも遺留品があるらしい。
小田切は、その電話を戸隠の山から帰る車内で受けた。ハンズフリー通話のため、車内に響く相手の声を、佐和もまた聞いていた。
小田切は動じなかった。終始落ち着いて冷静に受け答えする横顔に、佐和は彼の覚悟を見た気がした。おそらく彼は、叶がいなくなったときからずっと、こんな電話が来るときのことを繰り返し考えては、覚悟を塗り重ね、応答をシミュレートしてきたに違いなかった。厚く塗り固められた覚悟のおかげで事故を起こすこともなかったが、大切な人の死に関わることを、一ミリの動揺もなく聞く彼の姿には、佐和のほうが泣きたくなった。
そうやって、ガチガチに覚悟を固めておかなければ耐えられないほど、小田切にとって叶は大切な人だった。幼い彼に家族のぬくもりを与えてくれた叔父で、心を預けた山の師匠で、初めてザイルといのちを預けたパートナー。佐和を小田切のところまで導いてくれたのも、他ならぬ叶だ。最期まで一人で山に挑み続けた人だったが、小田切のことを気にかけ、大切にしていたのも本当だった。
今まで、叶はもう帰ってこないのだとわかっていながらも、どこかで、彼が世界の山を歩き続けているような気がしていた。だが、遺留品が見つかったことで――もしかしたら、遺体も見つかるかもしれない可能性が出てきたことで、彼の死はよりはっきりとした輪郭をもち、現実として小田切の目の前に突きつけられようとしている。
動揺を必死に押さえ込み、佐和はハンドルを握る彼の横顔をひたと見つめた。脳裡に、あの夏の槍のうつくしく清澄な夜明けがよみがえった。
――なぁ、佐和。いつか、一緒にアラスカに行ってくれないか。
小田切の言葉に、天に手をかざしながら、佐和は笑って答えたのだった。
――アラスカでも、ヒマラヤでも。いつか天国にだって一緒に行くよ。
あの約束を、果たすときが今、やってきたのだ。
「小田切、行こう」
そう佐和が言ったとき、小田切は小さく目を瞠った。視線は前方から離さなかったが、見えない手で佐和の存在を探るような、抱き締めたいような気配があった。
泣きそうにも見える顔で小さくほほ笑み、小田切は頷いた。
「ああ、行こう」
あの遠い夏の穂高のようだった。


それから一年近くの時間をかけて、二人は少しずつ準備を進めた。
ブロークントゥースは、山岳登攀をする人間には知られた山でも、デナリほど知名度が高い山でもなければ、ルートもそれほど整っていない。アンカレッジ経由でデナリの玄関口、タルキートナへ。そこからさらにセスナ機に乗り、カヒルトナ氷河へ。広大な氷河から見て、デナリと真反対にそびえるのがブロークントゥースだ。全行程三週間の旅を計画するのは、社会人二人にとって容易ではなかった。それが、彼と約束を交わして今まで七年、その約束が果たされなかった最大の理由でもある。
アウトドアメーカー勤務の佐和は、自社製品の耐久実験を兼ねることを条件に、長期休暇と金銭的補助をもぎ取った。小田切は、勤続十年のリフレッシュ休暇をほとんどすべて注ぎ込む。もう三十代半ば。体力と経験、技術を総合的に考えて、今が一番充実している。なんとしても、この夏、叶に会いにいくのだ。二人とも多少の無理は押し通した。
だが、そうやって、社会の枠の中で無理を通す困難を痛感したからかもしれない。
「いっそプロの登山家になっちまえばいいのに」
出発前の壮行会でかけられた一言に、小田切の心が大きく揺れたのを、たぶん、佐和だけが感じ取っていた。


叶の甥、敬介が、叶の遺品を回収にアラスカへ行く。
その噂は、かつて叶と交流の深かった人から人へ、口伝てに広まって、出発の半年前には、「一度あいさつに」という連絡が引きも切らず入ってくるようになった。
仕事では営業などしているが、小田切は元々、人付き合いに積極的なタイプではない。文字どおり閉口する彼を見るに見かね、佐和は提案した。
「いっそ、まとめてあいさつしたら? 壮行会……は、自分たちで開くもんじゃないから、お別れ会?」
それを聞いていた、クライミングジムオーナーの内藤が、「『お別れ会』じゃ縁起が悪い」と言って、壮行会の主催を買って出てくれた。山岳関係者が多い都合上、馴染みが深く集まりやすい、楡生高原のプチホテルを貸し切っての食事会だ。
当日は、叶と交流のあった人たちに加え、小田切や佐和の個人的な友人、知人、果ては佐和の両親まで駆けつけてくれた。
定年退職して、いざ山に登るぞと息巻いている父はともかく、母は三十半ばまで山に明け暮れ、とうとう海外の山に登ると言い出した佐和を危ぶんでの出席だ。「登山に便利だから」というだけの理由で、自宅に居候までさせてもらっている小田切に、せめて直接あいさつがしたいと言うものだから、何を言い出すかと思っていたが、当日はなごやかに言葉を交わし、気付いたらすっかり小田切にほだされていた。「陰のある、折り目正しい、控え目な」小田切に、心を掴まれてしまったらしい。「あんたもせめて小田切くんくらいデリカシーがあればねぇ」と言われ、佐和は苦笑するしかなかった。
なごやかに流れていく時間の中で、会場となったホテルオーナーの渡邊と話していたときだ。日程の確保に苦労したと語る佐和に、叶の登山仲間だったという男性が口を挟んだ。
「そんなまどろっこしいことしなくても、いっそプロの登山家になっちまえばいいのに。敬介、本当に、プロにはならないのか?」
「――」
一瞬、佐和は絶句した。ぬくぬくとくつろいでいたところへ、頭から冷や水をかけられた気分だった。
今まで何度も似たようなことは言われてきた。自分がいるところでもそうなのだから、いない場所ならもっとだろう。だが、何度聞いたところで、慣れるというものでもない。
どんな難ルートを登ろうとも、たとえ記録に残るような登攀をしようとも、小田切も佐和もアマチュアだ。スポンサーを集め、山に登ることを生業としている、プロの登山家とは根本的に違う。
学生時代、就職活動を前にして、佐和は一生、登山は趣味にしておこうと決めた。「プロの登山家」などという選ばれた人間にしかなれない職は、端から念頭になかったが、山岳ガイドやネイチャーガイド、山小屋職員への勧誘は、まったくなかったわけではない。だが、佐和はそれを断った。山を職場にしてしまうと、今まで抱いてきた山へのあこがれが「仕事」に侵されてしまう気がした。加えて、自分を下界の「群れの社会」から引き離し、山に据えることにもためらいがあった――というより、それが一番だったかもしれない。両親がいて、友人がいて、多くの人間が生活している、下界の「群れ」から孤立するのが、なんとなく、おそろしかったのだ。
だが、その一方で、小田切と一緒にいると、時々思わずにはいられないのだった。「なぜこの男は山にいないで、ここにいるのだろう?」と――。
就職活動の頃には、叶の遭難直後で、山に住みたいとは思わなかったと言っていた。けれども、今は? 今、小田切を地上に縛り付けているのは何だ? 
それを考えると、目の前が暗くなる。
自分は、彼を地上につなぎとめる楔だと思っていた。だが、魂をザイルでつなぐ自分たちの愛が彼を縛り、自分の臆病が彼を生きづらくしているのだとしたら? それでも、佐和は彼を手放そうとは思えない。二人の魂はすでにザイルでしっかりとつながれているのだから――。
……だが、小田切はちらりと佐和に視線を向けると、静かに首を横に振った。
「資金集めに奔走して、名声のために登るのは、おれの性には合いません」
「ご期待に添えなくてすみません」と頭を下げる小田切に、小柄な年配の女性が口を開いた。
「なら、山小屋主はどう?」
長年、弓ケ岳山荘を守ってきた小屋主夫妻の妻だった。夫婦二人、かつて内藤とともに叶の後援会の中心的存在だった人でもある。
「わたしたちもまだ元気だけど、あと十年行けるかしらって話はしてるのよ。体力が落ちる頃には高原に下りたいわねって。あなたたち、興味があるならやってみない? 今すぐにじゃなくてもいいから」
――来るべきときが来たと感じた。今まで七年、佐和とともに下界に留まっていてくれたけれど、いつかこんな日が――彼が山へと誘われるときが来るだろうという予感は、常に佐和の心にあった。
どんなに人間の社会に馴染んでいるように見えても、小田切は山の生きものだ。家族で、社会で、群れで生きている瞬間も、魂はいつも山に呼ばれている。そして彼の魂もまた、せつないほど山に恋い焦がれているのだ。
彼もきっとわかっているだろう。彼にとっては、下界の群れにまぎれるより、山での孤独のほうが生きやすい。ユキヒョウがヒマラヤの断崖に棲み、ライチョウが高嶺のハイマツの陰に拠るように。山での彼と、「群れ」での彼、両方を間近で見ているからこそ、小田切の答えを聞くまでもなく、彼が山からの誘いを断れるはずがないことを、佐和はよく知っていた。
だが、意外なことに、小田切は返事を保留した。アラスカから帰るまではその先のことは考えられないというのが理由だった。それは佐和も同意見だったが――。
(帰ってきたらどうするつもりなんだ?)
ききたいと思うのと同じくらい、きくのがこわかった。
いい話だ。弓ケ岳山荘なら、小田切にも馴染みが深い。だが、彼が小屋を継ぐのなら、会社を辞め、二人で住んでいる今の家も処分することになる。そのとき佐和は、自分たちの関係はどうするつもりなのか。
こんな日が、いつか来るとわかっていた。だからこそ佐和は、小田切に約束をねだったこともあった。忘れもしない、初夏の上高地で、ニリンソウの白い絨毯を眺めながら、『いつかもし本当に山で暮らすときが来ても、佐和を置いていかない』と――。
けれど、そんな口約束で、小田切を縛り付けることなどできない。そんなこと、佐和もしたくない。だったら、自分がついていくのか? 何もかも、彼と山以外のすべてを捨てて――?
佐和には答えが出なかった。

 *

だが、いざ小田切の出した答えを聞いた今、佐和の心はおそろしいほどに澄んでいた。
自分が望んでいた答えはこれだったのだとわかる。まるでそれが自然の摂理であるかのように、小田切の決断を当然のこととして受け止めた。
「そっか。決めたんだ」
満ち足りた声音になった。小田切は安堵したように「ああ」と答えた。
「帰ったらすぐに準備を始める」
「そっか」
佐和はもう一度頷いた。
束の間の沈黙が二人のあいだに落ちる。小田切が何かを言おうと口を開く。けれども、佐和は遮るように先に口にした。
「俺も決めた。俺も行く」
「――」
シュラフがこすれる音がして、こちらを向いた小田切と目が合った。
「おまえだけなんてずるいよ。置いていくな」
反対するなよと目線で諭す。小田切が自ら生きる場所を決めたように、彼と行くと決めたのは佐和の意思だ。
しばらく佐和の顔を見つめていた小田切だが、やがてふっと目許で笑った。
「佐和、睫毛が凍ってる」
「おまえもだよ」
言い返して笑う。数日ぶりの笑い声だった。
外は相変わらずの嵐だ。
北壁で叶のザックとカメラを氷の中から回収し、周囲も可能なかぎり捜索した。だが、叶本人にはとうとう会えないままだった。
頂上を制して、下山時に天候が急変、地吹雪に遭遇。ただちに雪洞を掘り、テントを張ってビバーク二日目――二日目のはずだ。ひたすら体を横たえて体力を温存し、水も食料も節約している。まだまだいのちの危険は感じないが、このまま動けない日が続けば、死の確率は高まるだろう。
だが、小田切と話しているうちに、不思議と悲壮感は薄らいでいた。
おそらくは、長く極限状態に置かれたせいで、精神的におかしくなっている。加えて、もはや「天候ばかりはなるようにしかならない」という心持ちになってきた。もっとも、人は死ぬときはあっけなく死ぬ。叶が帰ってこなかったように、自分たちも帰れないかもしれない。だが、なぜだか佐和自身にも理由はわからないものの、本当に死ぬ気がしないのだ。
外では嵐が吠え猛っている。アラスカの雪嵐はこれだけ暴れてまだ収まる気配がない。白い白い、天も地も真っ白な地吹雪の中、この緑色のテントだけが、山肌にしがみついている様を想像する。
(……そういや、このテントが初夜だったなぁ)
唐突にそんなことを思いだした。
「なあ、小田切。帰ったらエッチしよ」
小田切が勢いよく噴き出した。
「……ああ」
「帰ったら、毎日天国暮らしだ。冬は小屋を閉めて、山に登ろう」
「ああ」
「愛してるよ、小田切」
滅多に口にしないその言葉に、小田切は笑い混じりの声で答えた。
「帰ったら、俺も言ってやる」
佐和は「そりゃ死ねないなぁ」とほほ笑んだ。


どれほどそうしていたのだろう。気づくと、ずっと聞こえていたはずの風の音が消えていた。完全な無音だ。
「佐和」
「うん」
シュラフを開け、体を起こす。
「前髪凍ってる」
「おまえもだって」
互いの前髪を払いながら、テントのジッパーを下ろし、何日かぶりに――確かめたら、三日ぶりだった――雪洞入り口の雪をどける。
「見ろ」
雲の切れ間から射し込む陽光が、雪に反射して目に刺さった。テントから上半身を乗り出し、手のひらをかざす。見晴るかす切り立った渓谷の彼方、嵐をもたらした分厚い雲が、デナリの向こうに遠のいて見えた。
「下山日和だね」
「だな」
二人、顔を見合わせる。生きているのだという実感が、ようやく湧いてきた。
「……叶さんが守ってくれたのかな」
今もこの山の一部となって、叶は眠り続けている。おそらくもう半永久的に、彼が見つかることはないだろう。それを「彼の本望だ」とか「愛した山に眠ることができて幸せだ」とか言う人間もいる。だが、現実はもっと淡々としていると佐和は思う。山はうつくしく、空は青く広く、白い嵐は数日で通り過ぎ、自分たちはここに生きて立っている。けれど、叶のときはそうではなかった。ただ、それだけのことだ。それでも、自分たちを結びつけ、ここに並んで立たせてくれた人に、今はもういないその人に、何かの意味をもたせたくなる気持ちがある。
小田切は黙って佐和の顔を見た。
「……行こうか」
立ち上がり、手を差し出される。それを力強く握り返す。生きている。彼も、自分も。
下山して、帰国したら、今度は二人で山小屋番だ。
「行こう」
「ああ、行こう」
汚れのない一面の純白に、二人はあたらしい一歩を踏み出した。
2018-02-06